盛岡城:幕末時は奥羽越列藩同盟に加盟 新政府軍と戦火を交えた藩祖南部信直の盛岡城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
盛岡城

【城の説明】
盛岡城は岩手県盛岡市にあった南部藩の居城である。関東・東北地方では珍しい総石垣の城であり、天守台は建造されたものの天守自体は幕府への遠慮から造られなかった。城の位置は北上川と中津川の合流地点の小丘に築かれ、盛り上がる岡(盛大な岡)との意味をこめて盛岡城と命名されたと言われている。

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城は本丸を中心に二の丸・三の丸・淡路丸・腰曲輪などからなり完成までに約40年かけたというだけあり、石垣群は壮大である。戦国時代の南部家は出羽の安東氏(のちの秋田氏)や南陸奥の斯波氏との激しい争いを続けていたが豊臣秀吉が「奥州仕置」をする頃には奥羽地方では伊達家・最上家に続く戦国大名であった。

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南部家の痛恨事と言えば、豊臣秀吉の北条征伐の際に南部氏に従属していた大浦氏(津軽為信)が南部氏よりも早く秀吉に拝謁し、津軽地方の領地を安堵され一大名として認められてしまったことだろう。江戸時代の南部家は初期から中期にかけて「九戸城」を本拠としていた時期もあるが、ほどなく盛岡城へ本拠を戻している。

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明治維新まで南部家が代々この地を治め、明治の廃城令と共に城は破却された。明治維新では奥羽悦列藩同盟に加盟し、新政府軍と戦火を交え新政府側の秋田藩と先端を開いたが、会津藩の降伏や庄内藩の降伏などにより南部藩も兵を引き藩主以下謹慎した。現在の盛岡城址は「岩手公園」としたとして整備されており、盛岡城は日本100名城6番に選定されている。






【盛岡城・場所・アクセス】
〒020-0023 岩手県盛岡市内丸1

【盛岡城地図】





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