【城名】
明智城
【明智城の説明】
明智城は岐阜県可児市瀬田長山にあった典型的な山城です。
康永元年(1342年)、美濃源氏の流れをくむ「土岐頼兼」がこの地に城を築き、明智と名乗ったとされています。


その後代々明智氏による統治がおこなわれてきたが、弘治2年(1556年)9月、稲葉山城主「斎藤義龍」の攻撃を受け「明智光安(光秀の叔父)」は兵870名と共に籠城します。しかし、義龍の軍勢は約3700の大軍でもあり徐々に要所を破られ籠城2日目にして落城しました。


光安は自刃する前に、甥の「明智光秀」に明智家再興を託してひそかに落としました。義龍の父「斎藤道三」の後妻が明智家の出であり、その関係上明智家では道三方に味方をしていたために攻撃を受けた。(当時、道三・義龍親子は争っていた)

なお、明智城はこの時の戦で廃城となり二度と再築されることはなかった。城の遺構は本丸跡や曲輪・土塁などが比較的綺麗に残っています。
光秀はここで生まれたのか
明智城は、明智光秀の出生地と伝わる城のひとつです。ただ、光秀の前半生を確かに示す記録は乏しく、生まれた場所については可児のこの城のほか、恵那の明智(明知城)を挙げる説もあります。はっきりしているのは、美濃の明智氏が土岐氏の流れをくむ一族で、斎藤道三の後妻が明智の出だったこと、そして道三と義龍の争いで明智方が道三側に立ったことです。光秀がどこで生まれたにせよ、その一族の運命がこの城の落城で大きく変わったことは変わりません。光秀のその後は本能寺の変で書いています。
長良川の戦いの余波で落ちた城
道三と子の義龍が戦った長良川の戦いで道三が討たれると、勝った義龍は道三方についた国衆を次々に攻めました。明智城もその一つです。城主の明智光安は落城にあたって一族の再興を光秀に託し、光秀は城を落ち延びたと伝えられます。以後、光秀は越前の朝倉氏を頼り、やがて織田信長に仕えることになります。信長が美濃を取ったあとの拠点が岐阜城です。
土の城として遺構がよく残る
明智城は標高およそ百七十メートルの山に築かれた山城で、本丸、二の丸、出丸といった曲輪が段々に並びます。石垣はほとんどなく、土塁と堀切で守る中世の造りです。落城のあと再建されなかったため、かえって当時の形がよく残りました。曲輪を区切る堀切や、尾根を削って細くした土橋の跡が、そのまま歩ける状態で残っています。
現地はいま
城跡は「明智城址公園」として整備され、登り口から本丸まで徒歩でおよそ二十分です。道の途中には七つの曲輪をめぐる遊歩道があり、春の桜と初夏のあじさいで知られます。ふもとには光秀の供養塔がある天龍寺があり、日本一といわれる光秀の位牌が祀られています。丹波で光秀が築いた城は亀山城や福知山城で書いています。
城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
案内板に出てくる言葉を、断面図と配置図でまとめました。
【明智城・場所・アクセス】
〒509-0223 岐阜県可児市羽生ケ丘5-68
【明智城地図】

