一乗谷城とは
一乗谷城は、越前を約百年にわたって支配した朝倉氏の本拠である。福井市街から足羽川をさかのぼった一乗谷という細長い谷に、城主の館、家臣の屋敷、寺院、町屋がぎっしりと並び、背後の一乗城山(標高約473メートル)には詰城の山城が構えられていた。
天正元年(1573)に織田信長の手で焼き払われたあと、この谷は田畑の下に埋もれた。そのおかげで町の姿がそっくり残り、昭和期の発掘で道路や排水溝、屋敷の区画までが当時のまま姿を現す。「日本のポンペイ」と呼ばれる所以である。

特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡の石柱。遺跡は約278ヘクタールに及ぶ(福井県福井市城戸ノ内町)
朝倉孝景が谷に本拠を移すまで
朝倉氏はもともと但馬国朝倉庄の出で、南北朝期に斯波氏の被官として越前に入った。転機は応仁の乱である。西軍にあった朝倉孝景(英林孝景)が東軍へ転じ、文明三年(1471)に越前守護代として一乗谷を本拠に定めた。以後、氏景・貞景・孝景(宗淳)・義景と五代、天正元年までの約百年がこの谷の時代となる。
孝景が定めた分国法『朝倉孝景条々』は、戦国大名の家法として早い時期のものである。名門の出でも無能なら用いるな、一国に一人の名人を求めるより凡庸でも数多くの人を使え、といった実力本位の条文が並ぶ。血筋より働きを見るという姿勢が、下剋上で守護代から国主に成り上がった一族の自己認識をよく表している。
谷そのものが城だった
一乗谷の縄張りは独特である。谷の入口にあたる下城戸と、奥の上城戸に土塁と石垣を築いて谷を仕切り、その内側約1.7キロを城下町とした。左右は急峻な山、正面は二つの城戸。谷全体が一つの巨大な曲輪のような構造になっている。

朝倉館跡の唐門。現存する門は江戸中期の再建で、朝倉時代のものではない
この唐門は一乗谷を代表する風景だが、朝倉氏の遺構ではない。義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門で、現存するものは江戸中期の再建と考えられている。豊臣秀吉が寄進したという伝承が残るが、門そのものは朝倉滅亡より後のものである。

朝倉館跡の案内板。三方を土塁で囲まれた館の構造が図示されている
館は東・西・南の三方を土塁と堀で囲み、約6,400平方メートルの敷地に十数棟の建物が建っていた。会所、常御殿、台所、厩、蔵。館の背後には湯殿跡庭園があり、諏訪館跡庭園・南陽寺跡庭園・館跡庭園とあわせて四つが国の特別名勝に指定されている。

館跡を囲む堀と土塁。谷の斜面をそのまま防御に取り込んでいる

屋敷跡に残る井戸。町屋の一軒ごとに井戸と便所の跡まで確認されている
「北の京」と呼ばれた城下町
最盛期の一乗谷には一万人を超える人が暮らしていたと推定される。応仁の乱で荒れた京都から公家や僧、連歌師、医師が下ってきて、越前の谷に京の文化がそのまま移された。「北の京」と呼ばれたのはそのためである。
永禄十一年(1568)には、足利義昭が一乗谷に身を寄せている。義昭は朝倉義景に上洛を促したが、義景は動かなかった。待ちきれなくなった義昭は美濃の織田信長を頼り、信長はその年のうちに義昭を奉じて京へ入る。この一事が、その後の五年を決めたと言ってよい。
なぜ朝倉は滅びたのか
元亀元年(1570)、信長は越前へ攻め込むが、同盟者であった浅井長政の離反により金ヶ崎城から命からがら退却する。世に言う金ヶ崎の退き口で、殿を務めたのが木下藤吉郎、のちの秀吉である。姉川、志賀の陣と戦いは続き、朝倉と浅井は信長包囲網の一角を担い続けた。
しかし天正元年(1573)八月、刀根坂で朝倉軍は壊滅する。義景は一乗谷を捨てて大野へ落ちるが、従兄弟の朝倉景鏡に裏切られ、賢松寺で自刃した。四十一歳。城下町は信長軍によって三日三晩焼かれ、百年の繁栄が灰になった。
朝倉が滅んだ理由を、義景個人の優柔不断に帰す説明は多い。だが谷の地形を歩いてみると、別の見方も浮かぶ。三方を山に囲まれ、二つの城戸を閉じれば守り切れるこの地形は、外へ出ていく必要を感じさせない構造でもあった。安全な本拠を持ちすぎたことが、上洛という賭けに踏み切れなかった一因ではなかったか。信長には守るべき谷がなかった。

朝倉五代 義景公墓所。天正四年に村人が建てた小祠が起こりと伝わる
焼かれたから残った町
一乗谷のもう一つの皮肉は、徹底的に焼かれ、その後に誰も住まなかったことが、遺跡を完全な形で残したという点である。柴田勝家が越前を平定すると本拠は北ノ庄城に移り、一乗谷は田畑に戻った。以後四百年、地中で眠り続けた。
昭和四十二年(1967)から本格的な発掘が始まり、昭和四十六年には278ヘクタールが特別史跡に指定された。出土遺物は百七十万点を超え、そのうち二千三百点余りが重要文化財である。平成七年(1995)には武家屋敷と町屋が原寸で復原され、令和四年(2022)には県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館が開館した。

復原町並の入口。塀と門が発掘結果に基づいて原寸で建て直されている

復原町並の通り。道幅も側溝の位置も、発掘された遺構のとおりに再現されている
復原町並を歩くと、道の狭さに驚く。戦国の城下町は、こんなに小さな単位で人が肩を寄せ合って暮らしていた。復原されているのは建物だけだが、その間隔が当時の人口密度をそのまま伝えてくる。
一乗谷城の現地写真









一乗谷城・場所・アクセス
〒910-2153 福井県福井市城戸ノ内町
JR越美北線「一乗谷駅」から徒歩、またはJR「福井駅」から京福バス。北陸自動車道 福井インターから車で約10分。日本100名城 第37番。
遺跡は南北に長く、復原町並・館跡・義景墓所・上城戸まで歩くと相応の距離がある。山城部分(一乗城山)へ登る場合は登山の装備が要る。
- 玄蕃尾城 … 柴田勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた、遺構が良好に残る陣城
- 柴田神社(北の庄城址) … 勝家とお市を祀る社。御朱印・御城印とアクセス
- 柴田勝家の一族
一乗谷城ゆかりの城
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 朝倉滅亡後、柴田勝家が越前の本拠として築いた城
- 金ヶ崎城(福井県敦賀市)… 朝倉攻めの信長が浅井の離反で退却した金ヶ崎の退き口の舞台
- 小谷城(滋賀県長浜市)… 朝倉と同盟し、ともに信長に滅ぼされた浅井氏の居城
- 福井城(福井県福井市)… 江戸期の越前の中心。北ノ庄城の跡地に築かれた
- 安土城(滋賀県近江八幡市)… 一乗谷を焼いた信長が、その三年後に築きはじめた城
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