都之城:島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城

都之城:島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城

【城名】
都之城

【都之城の説明】
都之城は宮崎県都城市都島町にあった城で都城とも記載されます。島津氏の一族である北郷氏(都城島津氏)二代目当主「北郷義久」が築城し以降北郷氏の本城となりました。

都之城:島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城【お城特集 日本の歴史】

戦国時代後期に入ると豊臣秀吉に接近していた島津家重臣の「伊集院氏」が大名と同格で都之城に8万石を与えられました。この地は都之城盆地を治める重要な拠点として重きをなしました。

都之城:島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城【お城特集 日本の歴史】

慶長4年(1599年)、伊集院忠棟の横行が目立つと従来の当主である「島津忠恒」は忠棟を誅殺しました。これを受けて忠棟の嫡子「忠真」は島津宗家に反旗を翻し都之城に籠城、長い間対立が続いた。(庄内の乱)

最終的には島津家と和解に至るが後に一族郎党殺害されました。伊集院氏滅亡後は再び北郷氏が城主に治まったが、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり北郷氏は都之城付近の館に移る。

都之城:島津家重臣伊集院忠棟の居城 庄内の乱で主家に反旗を翻した都之城【お城特集 日本の歴史】

現在の城跡は城山公園として整備されています。

目次

北郷氏が六百年守った、島津の東の要

都之城は、島津氏の一族である北郷(ほんごう)氏が南北朝期に築いた城です。都島という土地に築いたことから「都之城」と呼ばれ、それがいまの都城という地名のもとになりました。日向と大隅の境にあたる庄内(都城盆地)は、島津氏にとって東からの入口を押さえる場所です。北郷氏はここを本城として代々受け継ぎ、島津の東の守りを担いました。島津宗家の居城については内城で書いています。

伊集院忠棟が入り、そして殺された

豊臣秀吉の九州平定のあと、島津家の領地は大きく組み替えられました。その過程で、秀吉との交渉にあたった重臣・伊集院忠棟が庄内八万石を与えられ、都之城に入ります。北郷氏は他所へ移されました。家臣でありながら大名並みの所領を持つ忠棟の立場は、島津家中では異様なものでした。九州平定の経緯は四国平定・九州平定でまとめています。

慶長四年(一五九九)、島津忠恒は京都で忠棟を自ら斬ります。上方で秀吉が亡くなった直後の、政情が揺れていた時期でした。

庄内の乱 ─ 十二の城に籠もった一年

父を殺された嫡子・伊集院忠真は、都之城を本拠に庄内の十二の外城に兵を入れ、島津宗家に反旗を翻しました。これが庄内の乱です。島津義弘・忠恒の軍が攻めても城は容易に落ちず、戦いは一年近く続きます。国元でこれだけの内乱を抱えたことが、島津家が関ヶ原の戦いに十分な兵を送れなかった理由の一つとされます。

最後は徳川家康の仲介で和睦が成り、忠真は城を明け渡しました。しかし数年後、狩りの途中で命を落とし、伊集院の一族も滅びます。乱のあと、庄内には再び北郷氏が戻りました。

一国一城令と、いまの城山公園

元和元年(一六一五)の一国一城令で都之城は廃されました。北郷氏は城の近くに館を構え、江戸時代を通じて都城を治めます。城跡はいま城山公園として整備され、本丸跡には城郭風の建物の都城島津邸・歴史資料館が建っています。堀切や土塁の跡も残り、盆地を見下ろす位置関係がよく分かります。城の用語は城の基本用語にまとめました。日向の城では飫肥城や宮崎城も島津と伊東の争いの舞台です。

【都之城・場所・アクセス】
〒885-0083 宮崎県都城市都島町803

【都之城地図】

伊集院忠棟が秀吉から直接所領を与えられたことが庄内の乱につながった流れは秀吉が引き抜いた・引き抜こうとした武将たちでも取り上げています。

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