【小谷城とは】
小谷城は、北近江を三代にわたって支配した浅井氏の居城である。琵琶湖の北東、小谷山(標高約495メートル)の尾根に曲輪を連ねた大規模な山城で、戦国期屈指の堅城として知られた。
天正元年(1573)、織田信長に攻められて落城。城主・浅井長政は自刃し、妻のお市の方と三人の娘は城を出された。日本五大山城の一つに数えられ、国の史跡、日本100名城第49番。

「史蹟 小谷城址」の碑。城跡は小谷山の尾根全体に広がる(滋賀県長浜市湖北町伊部)
【浅井三代 ─ 下剋上で北近江を取った家】
浅井氏はもともと北近江守護・京極氏の被官にすぎなかった。初代の浅井亮政が京極家の内紛に乗じて実権を握り、大永年間(1520年代)に小谷城を築いて本拠とする。典型的な下剋上である。
二代久政の代には南近江の六角氏に押され、一時は従属を余儀なくされた。これを跳ね返したのが三代長政で、永禄三年(1560)の野良田の戦いで六角義賢を破り、独立を回復する。家督は久政が隠居する形で長政に移った。

登城口に立つ「小谷城跡絵図」。尾根に沿って曲輪が連なる構造がよく分かる
【尾根に連なる曲輪をたどる】
大手道を登ると、番所跡、御茶屋跡、御馬屋跡と曲輪が現れ、その先に馬洗池がある。山上の城で水をどう確保するかは死活問題で、この池はその答えの一つだった。

馬洗池と御馬屋跡。山上の曲輪に水を溜める工夫が残る
途中には首据石と呼ばれる大石がある。大永五年(1525)、亮政に背いた家臣・今井秀信の首をここに晒したと伝えられる。城の入口近くにこれを据えたのは、明らかに見せるためである。

首据石。初代・亮政が謀反人の首を晒したと伝わる
さらに登ると桜馬場、黒金門跡を経て大広間(千畳敷)に至り、その奥が本丸。本丸の背後は大堀切で断ち切られ、中丸、京極丸、小丸、山王丸と続く。尾根の先には大嶽城、支尾根には福寿丸と山崎丸が置かれた。

曲輪の縁に残る石垣。戦国前期の山城としては石積みの使用が早い
【家中を割っていた、父と子の路線】
長政の離反は「妹婿による裏切り」として語られることが多い。だが浅井家の内部を見ると、話はもう少し込み入っている。
浅井が独立を保てたのは、越前の朝倉氏の後ろ盾があったからである。六角に押し込まれた久政の時代、朝倉との縁は家の生命線だった。隠居した久政と旧臣たちにとって、信長との同盟はその生命線を捨てる選択に見えたはずである。
一方の長政は、お市の方を迎えて織田との同盟を選んだ。つまり浅井家は、当主と隠居のあいだで外交方針が割れたまま元亀元年を迎えた。金ヶ崎での離反は、長政個人の心変わりというより、家中の重心が朝倉側へ振れ戻った結果と見るほうが自然だろう。
そして落城のとき、久政と長政は尾根の上と下に分かれて、それぞれ別に死ぬことになる。方針の分裂が、最期の場所まで分けてしまった。
【落城 ─ 城は「切断」された】
元亀元年(1570)、長政は金ヶ崎で朝倉を攻める信長の背後を突いた。姉川の戦いを経て、以後三年にわたり浅井・朝倉は信長包囲網の一角を担う。
天正元年(1573)八月、一乗谷の朝倉義景が滅ぶと、信長は小谷城を本格的に囲んだ。ここで決定的な働きをしたのが羽柴秀吉である。秀吉は尾根の中ほどにある京極丸を夜襲で奪った。
これが致命傷になった。小谷城は尾根に曲輪を一列に並べた城で、中間を押さえられると上下が分断される。小丸にいた久政と、本丸にいた長政は、互いに助け合えなくなった。この城は正面から破られたのではなく、真ん中で切断されたのである。八月二十七日に久政が、九月一日に長政が自刃した。

赤尾屋敷跡。家臣・赤尾清綱の屋敷があった場所で、長政が自刃したと伝わる
長政の享年は二十九。落城後、北近江を与えられた秀吉は小谷城を使わず、琵琶湖畔に長浜城を築いて本拠を移した。山を降りて湖と街道に面した場所を選んだこの判断は、山城の時代が終わったことをそのまま示している。

登城路の途中にある望笙峠。琵琶湖と竹生島を望む
【お市の方と三姉妹、そして麓の須賀谷】
落城の際、お市の方と茶々・初・江の三姉妹は城を出され、信長のもとへ送られた。その後の三人の生涯についてはお市の方と浅井三姉妹で詳しく取り上げている。

登城口に建つ浅井三姉妹をモチーフにしたモニュメント
小谷城の麓、須賀谷は片桐且元の生地と伝えられる。賤ヶ岳七本槍の一人に数えられ、のちに豊臣家の家老として大坂城を差配した人物である。浅井旧臣の子が秀吉に仕え、豊臣家の最後まで付き従うことになった。落城した城の麓から、次の時代の武将が出ている。
【小谷城の現地写真】











【小谷城・場所・アクセス】
〒529-0312 滋賀県長浜市湖北町伊部
JR北陸本線「河毛駅」から徒歩約30分で登城口。北陸自動車道 長浜インターから車で約20分。小谷城戦国歴史資料館が麓にある。日本100名城 第49番。
番所跡までは林道が通じているが、季節や時間帯によって通行が制限される。本丸から山王丸、さらに大嶽城まで足を延ばすと本格的な山歩きになるため、靴と時間に余裕を持って訪ねたい。熊やスズメバチへの注意喚起も出ている。
【小谷城ゆかりの城】
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 落城後、秀吉が北近江の新しい本拠として築いた城
- 一乗谷城(福井県福井市)… 同盟者・朝倉義景の本拠。小谷落城の直前に滅んだ
- 金ヶ崎城(福井県敦賀市)… 長政の離反により信長が退却した金ヶ崎の退き口の舞台
- 北ノ庄城(福井県福井市)… お市の方が二度目の落城を迎えた城
- 安土城(滋賀県近江八幡市)… 小谷とは正反対の「見せる」縄張りを持つ信長の城
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