姉川の戦いとは:織田・徳川と浅井・朝倉の激突の全容と、木下勢「第三陣」・十一段崩しの真偽、横山城の三年へ

浅い川の中で両軍が槍を交える姉川の戦いのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 姉川の戦いは、元亀元年(1570)6月28日、北近江の姉川をはさんで、織田信長・徳川家康の軍と浅井長政・朝倉景健の軍がぶつかった合戦です
  • 金ヶ崎で裏切られた信長が、浅井の小谷城の目の前まで攻め込み、支城の横山城を囲んだことが合戦のきっかけでした
  • 西では徳川勢が朝倉勢と、東では織田勢が浅井勢と戦い、浅井・朝倉方は退きました。『信長公記』は討ち取った首を千百余と記しています
  • 織田軍が「十三段の備え」を敷き、木下藤吉郎(秀吉)が第三陣を務めた、浅井の磯野員昌が十一段まで突き破った、という話は後世の軍記に見えるもので、細部は確かではありません
  • 合戦のあと秀吉は横山城の城番となり、三年にわたって浅井攻めの最前線に立ちました。秀吉兄弟の北近江での戦いは、ここから本格的に始まります

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第15回「姉川大合戦」で描かれたのが、この姉川の戦いです。織田・徳川と浅井・朝倉が正面からぶつかった、戦国時代を代表する野戦のひとつとして知られています。一方で、この合戦ほど「よく知られた話」と「同時代の記録」とのあいだに開きがある戦いも珍しく、秀吉兄弟の活躍として語られる場面の多くは、後の時代に書かれた軍記から来ています。この記事では、合戦にいたる流れ、当日の布陣と戦いの経過、そして木下勢がどこで何をしていたのかを、わかっていることとわからないことを分けながらくわしくたどります。

目次

なぜ姉川で戦うことになったのか

元亀元年4月、越前の朝倉攻めのさなかに浅井長政が背き、信長は金ヶ崎から朽木谷を越えて京へ逃げ帰りました。妹のお市を嫁がせた義弟の裏切りです。京から岐阜へ戻った信長は、すぐに反撃の準備にかかりました。撤退の経緯は 金ヶ崎の退き口とは でくわしく紹介しています。

6月、信長は北近江へ攻め込みました。浅井の本城・小谷城の城下に火を放ち、さらに南にある浅井方の支城・横山城を6月24日に囲みます。横山城は、小谷城と美濃・南近江を結ぶ道をおさえる城で、ここを落とされれば浅井は小谷城に閉じ込められてしまいます。信長はこの横山城の北にある龍ヶ鼻に本陣を置き、そこへ三河から徳川家康が駆けつけて合流しました。

浅井長政にとって、横山城を見捨てるわけにはいきません。越前から朝倉景健の率いる援軍も到着し、浅井・朝倉の連合軍は、小谷城の南の大依山に陣を構えました。こうして、姉川をはさんで南に織田・徳川、北に浅井・朝倉が向かい合うことになります。

姉川の戦いの布陣の概略図。姉川の北に朝倉景健と浅井長政、南に徳川家康と織田信長
姉川の戦いの布陣の概略図。西で徳川と朝倉が、東で織田と浅井が向かい合いました。

両軍の兵力と布陣

兵力については史料によって大きく異なり、確かな数はわかっていません。織田勢は一万から三万五千、徳川勢は三千から六千、朝倉勢は八千から二万、浅井勢は五千から一万と、記録ごとにばらつきがあります。ただ、どの記録でも織田・徳川方のほうが多く、浅井・朝倉方は数で劣っていたと見てよさそうです。

陣営 大将 陣を置いた場所 向き合った相手
織田勢 織田信長 龍ヶ鼻の本陣から姉川の南岸へ 浅井勢(東)
徳川勢 徳川家康 姉川の南岸(西寄り) 朝倉勢(西)
浅井勢 浅井長政 大依山から姉川北岸の野村へ 織田勢
朝倉勢 朝倉景健 大依山から姉川北岸の三田村へ 徳川勢

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢がいったん陣を払いました。織田方は退いたと見たようですが、実際には翌28日の未明、両軍は二手に分かれて姉川の北岸の野村と三田村に進み出ていました。この動きを、陣払いに見せかけた奇襲とみる研究者もいれば、日時を決めて臨んだ合戦だったとみる研究者もいて、評価は分かれています。

6月28日 ── 姉川の激突

戦いは早朝に始まりました。『信長公記』は、徳川勢が西の三田村の朝倉勢に向かって「一番合戦」を仕掛けたと記しています。続いて東では、織田勢と浅井勢が姉川の中で入り乱れて戦いました。姉川は夏の渇水期で水が浅く、兵たちは川の流れの中で槍を交えたと考えられます。『信長公記』はこのときの激しさを、伊勢の海女が潜って息つく間もないありさまにたとえています。

戦況が動いたのは、徳川勢の側でした。家康は朝倉勢の陣形が伸びきっているのを見て、榊原康政らに横から攻めさせたと伝えられています。朝倉勢が崩れると、浅井勢も持ちこたえられなくなり、やがて浅井・朝倉の連合軍は小谷城の方へ退いていきました。織田方では、西美濃の稲葉一鉄らが浅井勢の横を突いて戦いを有利に運んだともいわれます。『信長公記』は、この日に討ち取った首を千百余と記しています。

浅い川の中で両軍が槍を交える姉川の戦いのイメージ(イラスト)
姉川の戦いのイメージ(イラスト)。夏の浅い川の中で、両軍の兵が入り乱れて戦いました。

「十三段の備え」と木下勢の第三陣

姉川の戦いでよく語られるのが、織田軍が十三段もの陣を重ねて構え、浅井方の猛将・磯野員昌がそのうち十一段までを突き破って信長の本陣に迫った、という話です。このとき木下藤吉郎(秀吉)の部隊は第三陣にいた、とする陣立ても広く紹介されています。江戸時代の軍記に見える陣立ては、おおむね次のようなものです。

段 武将(軍記に見える陣立て)
第一陣 坂井政尚
第二陣 池田恒興
第三陣 木下秀吉
第四陣 柴田勝家
第五陣 森可成
第六陣 佐久間信盛
以下 信長の本陣まで十三段とされる

この陣立てに従えば、木下勢は前から三番目、浅井勢の突撃をまともに受ける位置にいたことになります。坂井・池田の前の二陣が崩されたあと、木下勢が踏みとどまって、あるいは押し込まれながらも戦い続けた、という場面が、のちの秀吉の伝記や小説で好んで描かれてきました。秀吉の軍師・竹中半兵衛が、浅井勢の勢いを見て守りを固める陣形に組み替えるよう進言した、という話もあります。

ただし、こうした陣立ても十一段崩しも、同時代の『信長公記』には見えません。十三段という数そのものが、川をはさんだ野戦の陣形としては不自然だという指摘もあります。浅井勢が織田勢を押し込み、一時は本陣を脅かすほどの勢いを見せたことは十分ありえますが、その規模や形は後世にふくらまされたと考えるのが妥当でしょう。木下勢についても、織田勢の前線のどこかで浅井勢と戦ったことは確かと見てよいものの、「第三陣」という位置や細かな奮戦ぶりは、軍記の語りとして受け取っておく必要があります。

▽ よく語られる話
磯野員昌の猛攻で織田軍は十三段のうち十一段まで破られ、信長は本陣を脅かされた。第三陣の木下秀吉は、崩れかけた前線で踏みとどまった。
▼ 史実ではこうです
十三段の陣立ても十一段崩しも、江戸時代の軍記『浅井三代記』などに見える話で、同時代の『信長公記』には書かれていません。浅井勢が織田勢を押し込む激戦だったことは記録からうかがえますが、陣の段数や秀吉の位置は確かではありません。

弟・小一郎はどこにいたのか

大河ドラマでは、兄の部隊を支える小一郎(のちの秀長)の姿が描かれます。この時期の小一郎は兄の家中を切り盛りする立場にあったと考えられ、木下勢の一員として姉川にいた可能性は高いでしょう。ただし、姉川で小一郎が具体的に何をしたかを記した同時代の記録はありません。秀長の名が確かな史料にはっきり現れてくるのは、もう少し後、兄が長浜城主となってからのことです。秀長が織田家でどんな立場にいたのかは 豊臣秀長は織田信長の直臣だったのか で取り上げています。

合戦のあと ── 横山城と秀吉の三年

姉川で勝ったとはいえ、信長は小谷城まで攻め落とすことはできませんでした。浅井・朝倉勢は大きな打撃を受けながらも本城に戻り、戦いはここから長期戦になります。一方、姉川の戦いのあと、囲まれていた横山城は織田方に降り、信長はこの城に木下秀吉を城番として入れました。

横山城は小谷城から南へ十キロほど、浅井の領国の真ん中に打ち込まれた楔のような城です。秀吉はここに三年近くとどまり、浅井方の武将を一人ずつ調略して寝返らせ、小谷城を少しずつ孤立させていきました。姉川で浅井の先鋒として奮戦したと伝わる磯野員昌も、のちに佐和山城を開いて織田方に降っています。姉川の戦いそのものよりも、そのあとの横山城での三年こそが、秀吉兄弟にとっての本当の「浅井攻め」だったといえます。横山城については 横山城 で、三年後の小谷城の落城は 小谷城の戦い で紹介しています。

呼び名の違い ── 姉川か、野村か、三田村か

「姉川の戦い」という呼び方は、徳川方の記録に由来するといわれます。織田方や浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼ばれることもありました。それぞれが戦った場所の名で合戦を呼んでいたわけで、同じ一日の戦いが、陣営によって違う名前で記憶されていたことになります。江戸時代に徳川家の歴史が重んじられるなかで、家康が活躍した戦いとして「姉川」の名が広まっていったと考えられます。

姉川古戦場を歩く

古戦場は滋賀県長浜市の野村町・三田町のあたりで、姉川の堤防近くに古戦場の碑が立っています。周辺には、激しい戦いで流れた血で野が染まったと伝わる「血原」や、川が血で赤くなったという「血川」の地名が残り、合戦の記憶を今に伝えています。北を見れば小谷山、南を見れば横山城のあった横山丘陵が見え、両軍がどんな位置関係で向き合っていたのかを実感できます。小谷城跡とあわせて訪ねると、姉川から小谷落城までの三年を一日でたどることができます。

よくある疑問

Q. 姉川の戦いはいつですか?
A. 元亀元年(1570)6月28日です。いまの暦では8月の上旬にあたり、川の水が少ない時期でした。

Q. 姉川の戦いで勝ったのはどちらですか?
A. 織田・徳川方です。浅井・朝倉方は退きましたが、信長は小谷城を落とすことはできず、決着は三年後の小谷城の落城まで持ち越されました。

Q. 秀吉は姉川の戦いで何陣にいたのですか?
A. 江戸時代の軍記には第三陣とする陣立てが見えますが、同時代の記録では確かめられません。

Q. 十一段崩しは本当ですか?
A. 『浅井三代記』などの軍記に見える話で、後世の創作という見方が強くなっています。ただ、浅井勢が織田勢を押し込んだ激戦だったことは確かです。

まとめ

姉川の戦いは、金ヶ崎で裏切られた信長が浅井の領国に攻め込み、徳川家康とともに浅井・朝倉の連合軍を破った合戦です。西では徳川と朝倉、東では織田と浅井が戦い、浅井・朝倉方は小谷城へ退きました。十三段の陣立てや十一段崩し、第三陣の木下勢の奮戦は後世の軍記が描いた姿で、細部は確かではありません。それでも、この合戦のあと秀吉が横山城を任され、三年がかりで浅井を追い詰めていったことは確かであり、姉川は秀吉兄弟の北近江での戦いの出発点になりました。ドラマ全体の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 で、浅井長政の側から見たこの戦いは 浅井長政 中編 でたどることができます。

  • URLをコピーしました!
目次