広島城:毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり

広島城は毛利輝元が山を下りて築いた城です。太田川の河口に広がる三角州へ本拠を移し、そこにあった村の名を改めて「広島」としました。町の名が城とともに生まれたことになります。輝元は関ヶ原ののちに萩へ移され、代わって福島正則、そして浅野氏が入りました。天守は国宝に指定されていましたが、原子爆弾によって崩れ落ちています。

この記事のポイント
  • 毛利輝元が山城を捨てて三角州に築いた、百十二万石の城
  • 「広島」という地名は、この築城のときに名づけられた
  • 福島正則の改易は、石垣の無断修築が理由とされる
  • 国宝だった天守は原子爆弾で倒れ、のちに外観が再建された
目次

山を下りた毛利輝元

毛利氏は吉田郡山城という山城を本拠としてきました。元就が月山富田城の尼子氏を降し、中国地方の大半を手中に収めたあとも、拠点は山の上のままです。それを改めたのが孫の毛利輝元でした。豊臣政権に組み込まれ、五大老の一人として政権の中枢に加わるなかで、山城では領国の経営も客の応対も追いつかないと判断したのでしょう。

選ばれたのが太田川の河口に広がる三角州です。海と川の水運を使え、山陽道が通り、広い城下町を置く余地もあります。天正17年(1589年)に普請が始まり、十年ほどで城と町の形が整いました。縄張は大坂城を参考にしたと言われ、黒田官兵衛が助言したという伝えも残ります。

広島城跡の石碑と石垣

城跡を示す石碑と石垣。城域は三角州の低地に広がり、堀には川の水が引き入れられている。

「広島」という名の生まれた場所

築城の前、この一帯は五ヶ村などと呼ばれる砂州の集まりでした。輝元が城を築くにあたって新しい名をつけ、それが広島として定着します。名の由来については、広い三角州の島という地形から取ったという説、毛利の祖である大江広元の「広」と、普請に功のあった福島元長の「島」を合わせたという説などが伝えられ、どれが正しいとは決められていません。

城下町は碁盤の目に区切られ、川の分流に沿って舟入が設けられました。町人地と武家地がきれいに分かれ、中国地方最大の都市の骨格がこのときに引かれます。輝元にとっては、山の城で守りを固める時代から、町を経営する時代への切り替えでもありました。

木立ごしに見る広島城の天守

木立の向こうに姿を見せる天守。平地の城なので、近づくまで全体が見えない。

福島正則はなぜ改易されたのか

関ヶ原で西軍の総大将に担がれた輝元は、戦後に周防と長門の二か国へ大きく減らされ、萩城跡へ移ります。広島に入ったのは、東軍の先鋒として働いた福島正則でした。ところがその正則も、二十年足らずで領地を失います。

▽ よく語られる話

福島正則は幕府に無断で城を改造したため、武家諸法度に背いたとして改易された。

▼ 史実ではこうです

正則が直したのは、洪水で壊れた石垣と建物でした。届け出をめぐるやりとりはあり、幕府から壊すよう命じられた分を十分に壊さなかったことが咎められています。ただ、豊臣恩顧の大名のなかでも最大級の勢力を持つ正則を、幕府が警戒していたことも背景にありました。届け出の不備が処分の理由であることは確かですが、それだけで五十万石が消えたと見るのは話を単純にしすぎでしょう。正則は信濃と越後の四万五千石へ移され、そこで生涯を終えました。

代わって入った浅野長晟の家が、十二代にわたって幕末まで広島を治めます。福山城跡の水野氏とともに、幕府は西国の要をこの二つの城で押さえました。

浅野家の二百五十年と縮景園

浅野長晟が広島へ入ったとき、家老としてついてきたのが上田宗箇でした。武将でありながら茶と作庭に通じた人物で、城の東に藩主の別邸の庭を作ります。これが縮景園で、池を中心に山や谷を縮めて配した造りは、宗箇が徳島城でも手がけたと伝わる庭と同じ発想でできています。

浅野家は四十二万六千石で十二代、幕末まで広島を治めました。瀬戸内の海運と太田川の舟運を握り、城下は中国地方最大の町として栄えます。幕末には長州征討をめぐって幕府と長州のあいだに立たされ、二度目の出兵では動かずに終わりました。やがて薩摩・長州と結んで新政府の側に立ち、明治を迎えています。

国宝だった天守と、あの朝

広島城の天守は五重で、大天守に二つの小天守を渡櫓でつないだ連結式でした。黒い下見板に白い破風という姿は岡山城とも通じ、豊臣の時代の城らしい重厚さをたたえています。江戸時代を通じて建ち続け、近代になって国宝に指定されました。

明治以降、城内には軍の施設が置かれ、日清戦争のときには大本営が広島に移されて、天皇と政府の中枢が一時ここに滞在しています。城が軍の中心であったことは、のちの出来事と無関係ではありませんでした。

昭和二十年八月六日の朝、原子爆弾の爆風によって天守は崩れ落ちます。城内の建物もほとんどが失われました。いまの天守は戦後に鉄筋で建て直されたもので、内部は歴史博物館になっています。二の丸の表御門と平櫓、多聞櫓、太鼓櫓は木造で復元され、本丸の一角には爆風を受けながら生き残った樹木が立っています。

広島城の天守

正面から見た天守。黒い下見板と白い破風の対比が、豊臣期の城の姿を伝えている。

三角州の城を歩く

広島城の見どころは、平地の城ならではの水の使い方にあります。内堀には太田川の水が引き込まれ、石垣の足もとまで満ちています。石垣は川の石を使った野面積みが基本で、角では長短の石を組み合わせて立ち上げてあり、時代によって積み方が変わっているのも見比べられます。

二の丸は出入り口の前に張り出した馬出のような構えで、表御門をくぐって平櫓、多聞櫓、太鼓櫓と続く一角は、木の香りのする復元建物のなかを歩けます。本丸には広島護国神社が鎮座し、大本営の跡や被爆樹木の説明板も点在しています。城跡というより、この町が通ってきた時間が層になって置かれている場所です。

広島城の堀と石垣

堀に沿って続く石垣と土橋。内堀には太田川から水が引き込まれている。

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広島城・場所とアクセス

広島県広島市中区基町21-1。広島電鉄の紙屋町東または紙屋町西の電停から歩いて十五分ほど、アストラムラインの県庁前や城北の駅からも近い距離です。天守と二の丸の復元建物は有料で、日本100名城のスタンプは天守の入口に置かれています。平和記念公園からは歩いて二十分ほどで、原爆ドームとあわせて歩く人も多い場所です。吉田郡山城へは車で一時間、三原城や福山城跡は山陽道を東へ向かえばたどれます。

毛利氏と中国地方の城
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