波切城(なきりじょう)は、志摩半島の先端、大王崎のそばにあった城です。海に突き出した段丘の上に築かれ、規模は砦に近いものでした。南北朝のころ土豪の川面氏が構え、のちに九鬼氏が奪ってこの地を押さえます。九鬼嘉隆が志摩を制して鳥羽に城を築くまで、九鬼氏の拠点のひとつでした。城跡は公園になり、太平洋が一望できます。
- 海岸段丘の上に築かれた、海を見張るための小さな城
- 九鬼氏は海賊と呼ばれたが、その実体は海上の秩序を握る領主だった
- 嘉隆は信長・秀吉に仕え、その船の力が水軍として組織された
- 鳥羽に城が築かれると、波切城は役目を終えた

草に覆われた平場の先に、柵ごしの水平線が広がる。ここから沖を通る船をひと目で見わたせた。
海を見張るための城
波切は、志摩半島がもっとも太平洋へ張り出す場所です。城が置かれたのは、その海岸段丘の上。崖が海に落ちこみ、陸から近づける道は限られます。人の多く住む土地を守る城ではなく、海を見張り、船の出入りを押さえるための城でした。
志摩の海岸線は入り江が複雑に入りくみ、無数の船着き場があります。それぞれの入り江に土豪がいて、船を持ち、海の道を握っていました。九鬼氏はもともと紀伊の九鬼浦を拠点とし、貞治年間に波切を襲って川面氏を追ったと伝えられます。海の領主どうしの争いは、陸の合戦とは別の論理で動いていました。

木立のなかを登る石段と、その脇の石積み。規模は小さいが、城の登り口であることがわかる。
海賊衆とは何者か
この見方に立つと、波切のような小さな城の意味も変わってきます。ここは砦であると同時に、海の道を管理する事務所のような場所でもありました。沖を通る船を見張り、入り江に入る船を確かめる。その積み重ねが九鬼氏の力になっていきます。
九鬼嘉隆と、船の力
九鬼嘉隆は、田城城を本拠としていましたが、一度は志摩を追われています。その後、織田信長に仕えて志摩へ戻り、やがて志摩一国を手中にしました。大河内城を囲んだ伊勢攻めにも、九鬼の船が関わっています。
名を高めたのは、大坂の石山本願寺をめぐる海の戦いです。毛利の水軍に敗れたのち、嘉隆は厚い板で装甲した大型船を用意し、木津川口でこれを破りました。いわゆる鉄甲船です。船の詳しい構造は史料が乏しく、どこまで鉄で覆われていたかは議論がありますが、大型船で火矢を防ぎ、大鉄砲を据えて戦ったことは伝えられています。
秀吉の時代には、朝鮮へ渡る船団の中心となりました。朝鮮出兵では、日本丸と呼ばれる大船が九鬼水軍の旗艦になっています。志摩の入り江の土豪が、国家の水軍を率いる立場へ上がっていったことになります。

切り立った段丘の上に小さな建物が建つ。崖の高さと海までの近さが、この城の守りそのものだった。
鳥羽へ移り、城は終わる
文禄年間、嘉隆は鳥羽に新しい城を築きました。船を直接城へ着けられる海の城で、志摩全体を治めるにはこちらのほうが便利です。波切城は役目を終え、廃されました。海の領主の拠点が、入り江の砦から近世の城へ移った瞬間です。
関ヶ原の戦いでは、嘉隆が西軍、子の守隆が東軍につきました。家を残すために父子で分かれたとも言われますが、その意図をそのまま記す史料はありません。西軍の敗北後、嘉隆は答志島で自害します。守隆の助命嘆願が間に合わなかったと伝えられ、志摩の海の物語のなかでもよく知られた場面です。
波切城跡の訪ね方
城跡は志摩市大王町波切にあり、大王崎灯台のすぐ近くです。公園として整えられ、石碑と石垣の一部が残ります。海までの距離が近く、崖の上から太平洋を見わたせます。波切の町は坂と路地が入りくんだ漁師町で、灯台まで歩けば絵になる風景が続きます。
志摩から伊勢へまわるなら、田城城や松坂城、桑名城と結ぶと、海と街道の両方から伊勢志摩を見ることができます。
所在地:〒517-0603 三重県志摩市大王町波切

