小田原城:九キロの総構で町ごと囲んだ北条五代の城と、天守が語る江戸の小田原

小田原城:北条早雲に始まり北条家5代にわたり関東を支配した名城 小田原城

小田原城は北条氏五代の本拠として関東に君臨し、上杉謙信も武田信玄も落とせなかった城です。町ごと囲む総構の長さはおよそ九キロにおよび、戦国の城としては国内最大級でした。いま天守が建つ本丸は、その総構のごく一部にすぎません。江戸時代には大久保氏の城として石垣と天守を備える近世の城に姿を変え、明治にいったん失われたのち、天守と門が順に建て直されています。

この記事のポイント
  • 北条早雲が大森氏から奪い、五代百年の関東支配の拠点になった
  • 町を丸ごと囲む九キロの総構は、戦国の城として国内最大級
  • いまの天守は江戸時代の大久保氏の天守を写した復興天守
  • 銅門・馬出門・常盤木門が木造で復元されている
目次

北条早雲から五代、関東の中心へ

小田原の城はもともと大森氏が構えていました。これを北条早雲、伊勢宗瑞が手に入れたのが北条氏の関東進出の起点になります。興国寺城跡(沼津市)で旗揚げした早雲は伊豆を平らげ、箱根を越えて相模へ入り、その子の氏綱が本格的に本拠として整えました。

三代氏康の代には関東の大半が北条氏の勢力下に入ります。川越城をめぐる夜戦で扇谷上杉氏を破り、八王子城や鉢形城といった支城を一族で固め、山中城で西からの道を押さえました。上杉謙信が十万ともいわれる軍勢で攻め寄せたときも、武田信玄が城下まで迫ったときも、小田原は落ちていません。守りの基本は籠城で、支城が敵の背後を脅かすあいだ本城で持ちこたえる、という組み立てでした。

小田原城の堀と学橋、桜

堀に架かる朱色の橋と桜。いま公園として開かれているのは、かつての城域のごく一部にあたる。

北条五代を支えた領国の仕組み

百年にわたって関東を保ったのは、城の堅さだけによるものではありません。北条氏は検地を進めて土地の実態をつかみ、年貢の割合を四公六民に定めて百姓の負担を軽くしたと伝えられます。虎の姿を彫った朱印を押した文書で命令を出し、代官が勝手に取り立てることを禁じて、印のない要求には従わなくてよいと村々に示しました。

訴えを受け付ける目安の制度も整えられ、領民が直接申し立てる道が開かれています。街道には伝馬が置かれ、支城と本城のあいだを文書と人が行き来しました。城と城をつなぐこの仕組みがあったからこそ、鉢形城や八王子城に一族を配し、広い関東を一つの体として動かすことができたのです。

町ごと囲んだ総構

豊臣秀吉との対決が避けられなくなると、北条氏は城下町ごと土塁と堀で囲む工事に着手しました。これが総構です。丘陵の尾根を削り、谷を堀に変え、城下の町人地も寺社も田畑も内側に取り込んだその長さは、およそ九キロにおよびました。籠城のあいだ町の機能がそのまま城の中で生き続ける仕組みで、同じ発想はのちの上田城の惣構えや大坂城にも見られますが、規模ではこの小田原が群を抜いています。

総構の跡はいまも市街地のあちこちに残っています。小峯御鐘ノ台の大堀切では、深さ十メートルを超える堀と土塁が林のなかに伸びており、これが城の外周だったことに驚かされます。天守のある一帯だけを見て帰ると、この城の本当の大きさは見えません。

三か月の籠城と、北条氏の終わり

天正18年(1590年)、秀吉は二十万を超える軍勢で小田原を囲みました。北条方の支城は山中城を皮切りに次々と落ち、秀吉は小田原を見下ろす山に石垣山城を築いて長期戦の構えを見せます。三か月におよぶ籠城ののち、北条氏直は開城を決めました。氏政と氏照は切腹し、五代百年の北条氏は大名としての歴史を閉じます。

この籠城のあいだに交わされた評議が、決断の遅さを指す言葉として後世に残りました。その評議が本当に無為だったのかについては、小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのかでくわしく見ています。

小田原城の銅門

木造で復元された銅門。二の丸の正面にあたる門で、渡櫓の下をくぐって本丸へ向かう。

いまの天守は北条氏の天守ではない

小田原城といえば白い天守、という像が定着しています。ただ、その天守が誰の時代のものなのかは、意外に知られていません。

▽ よく語られる話

いま建っている天守は、北条五代が関東を支配した城の象徴である。

▼ 史実ではこうです

現在の天守は、江戸時代に大久保氏が建てた天守の絵図と模型をもとに復興されたものです。北条時代の小田原城に天守が建っていたかどうかは確かめられておらず、当時の城は石垣ではなく土塁と堀を主体とする、はるかに広い範囲に広がる城でした。今の本丸のあたりは北条時代の城の一角にすぎません。天守のある風景は江戸時代の小田原、総構の土の堀は戦国の小田原、と時代を分けて眺めると、この城跡はぐっと立体的になります。

江戸時代の小田原城と、大久保氏

北条氏の滅亡後、徳川家康は大久保忠世をこの城に入れました。ところが二代忠隣が改易されると城の建物は取り壊され、しばらく規模を縮められます。寛永の世に稲葉正勝が入ると、総石垣と天守を備えた近世城郭として大がかりに造り替えられました。のちに大久保家が戻り、幕末まで十万石余りの譜代大名の城として続きます。

箱根の関所を預かり、東海道の要を押さえる城でしたが、自然災害には何度も痛めつけられました。元禄の大地震では天守も櫓も倒れて焼け、数年かけて建て直されています。明治に入ると廃城となって天守は解体され、関東大震災では石垣が大きく崩れました。いまの天守は昭和になって鉄筋で復興されたもので、その後に銅門、馬出門、常盤木門が木造で復元されて、二の丸から本丸へ至る道筋が江戸時代の姿を取り戻しています。

夕方の小田原城天守

夕暮れの天守。石垣の上にそびえる姿は江戸時代の絵図と模型をもとに復興された。

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小田原藩/大久保家11万3千石:大久保忠礼 人見勝太郎率いる遊撃隊の来援で一度は旧幕府軍に協力した小田原藩

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小田原城・場所とアクセス

神奈川県小田原市城内6-1。JR小田原駅の東口から歩いて十分、線路のすぐ南側が城跡です。天守と常盤木門は有料、公園と銅門周辺は自由に歩けます。日本100名城のスタンプは天守閣の入口に置かれています。時間に余裕があれば、市街地の西に残る小峯御鐘ノ台の大堀切まで足を延ばすと、総構の規模が体でわかります。箱根方面へ向かえば山中城跡、海沿いには秀吉の石垣山城があり、小田原征伐の三点を一日で回れます。

小田原城の天守と石垣

石垣の上に建つ天守。二の丸から本丸へ上がる道は、復元された門を順にくぐる形で整えられている。

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北条五代と関東の城

戦国大名が本拠を移したかどうかの違いは、戦国大名は本拠を移したのかで比べています。

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