- 『豊臣兄弟!』最終回では、小田原攻めの前に秀長が諸大名と交渉し、積みあがった書状に、ひそかに寝返りを誓った北条方の重臣たちの名が並ぶ場面があるようです
- 史実で、籠城中の小田原城から豊臣方へ寝返ろうとした重臣として知られるのが、北条家の宿老・松田憲秀です
- 天正18年(1590)6月、憲秀は長男の笠原政晴とともに内応をはかったとされますが、次男の直秀が当主の氏直に知らせたため発覚し、憲秀は捕らえられ、政晴は殺されたといわれます
- 小田原開城のあと、秀吉は氏政・氏照・大道寺政繁とともに憲秀にも死を命じました。豊臣に寝返ろうとした者まで許さなかったことになります
大河ドラマ『豊臣兄弟!』最終回(第47回)では、秀吉が北条攻めを決めたあと、秀長が出陣の直前まで諸大名との交渉に奔走する姿が描かれるようです。伝えられているあらすじでは、山のように積まれた書状に、豊臣に味方を申し出る関東の国衆や、ひそかに寝返りを誓った北条方の重臣たちの名がびっしりと並んでいたといいます。では史実で、北条を裏切ろうとした重臣はいたのでしょうか。その代表といえるのが、北条家の宿老・松田憲秀です。

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松田憲秀とは:北条家臣の筆頭
松田氏は、北条早雲(伊勢宗瑞)の時代から北条家に仕えた譜代の家老の家で、憲秀はその当主として北条家臣のなかで最も大きな知行を持っていました。その額は2,798貫とされ、ちょっとした大名に匹敵する格だったといわれます(北条五代100年の歴史)。
元亀2年(1571)には駿河の深沢城で武田信玄の攻撃を防ぎ、天正10年(1582)の天正壬午の乱では、信濃から引きあげる北条軍のしんがりを務めるなど、戦場でも働いた重臣でした。
小田原攻めで何があったのか
天正18年、秀吉は20万をこえる大軍で小田原城を囲みました。憲秀は当初、城にこもって戦うことを強く主張した一人だったといわれます。ところが、伊豆や武蔵の支城がつぎつぎと落ち、包囲が長引くと、憲秀は豊臣方に通じようとします(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。
| 天正18年3月 | 秀吉が京を出陣。4月には小田原城を包囲する |
|---|---|
| 6月16日 | 松田憲秀が長男の笠原政晴とともに豊臣方への内応をはかったとされる。次男の直秀が氏直に知らせて発覚 |
| 7月5日 | 北条氏直が降伏を申し出る |
| 7月11日 | 氏政と弟の氏照が切腹 |
| 7月19日 | 大道寺政繁が切腹。憲秀も死を命じられたが、最期の日付や場所ははっきりしない |
内応の誘いをかけたのは秀吉の重臣・堀秀政だったという話が知られていますが、秀政は5月27日に陣中で亡くなっているため、疑問も出されています。また、首謀者は憲秀ではなく息子の政晴だったとする説や、北条家の領地と城兵の命を守るための独断の和平交渉だったとする説もあり、内応の中身ははっきりしません。

密告したのは実の息子
憲秀の企てを当主の氏直に知らせたのは、憲秀の次男・直秀だったといわれます。父と兄を訴え出た直秀は、北条家が降伏したあとも氏直に従って高野山に入りました。氏直が亡くなったのちは豊臣秀次や前田利長に仕え、加賀前田家で4,000石を得て、慶長19年(1614)に金沢で亡くなっています。
一方、長男の政晴は、天正9年(1581)ごろに一度、武田方に寝返ったことがある人物で、その後北条家に戻っていました。小田原の籠城で再び裏切りをはかったとされ、氏直に殺されたと伝わります。家臣筆頭の家が親子で割れたことは城内に大きな動揺をあたえ、落城を早めたともいわれます。
なぜ秀吉は憲秀まで許さなかったのか
北条家が降伏すると、秀吉は戦の責任を問い、氏政・氏照の兄弟とともに、宿老の松田憲秀と大道寺政繁に死を命じました。当主の氏直は、家康の娘婿であったことなどから命を助けられ、高野山へ送られています(秀吉はなぜ北条家を相模一国だけでも残さなかったのか)。
豊臣に寝返ろうとした憲秀が処罰されたのは、主家を裏切ろうとした不忠をとがめられたためだと伝わります。籠城を強く主張して戦を長引かせた責任を負わされたともいえるでしょう。憲秀の最期のようすは伝わっておらず、のちに次男の直秀が前田家に仕えた縁で、金沢で供養されたとみられています。
ドラマの「寝返りの書状」と秀長
史実の秀長は、小田原攻めの前から病が重く、出陣できずに京や大和で留守を守りました(秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか)。関東の国衆や北条方の武将への調略は、陣中の黒田官兵衛や家康らが担った部分が大きいとみられます。ドラマが、寝返りを誓う重臣の名が並ぶ書状を秀長の机に積みあげるのは、豊臣政権の取次として大名たちとの交渉を一手に引き受けてきた秀長の仕事を、最後にもう一度見せる演出といえそうです(最終回(第47回)あらすじ予想と史実)。
よくある質問
Q. 小田原攻めで北条を裏切ろうとした重臣は誰ですか?
A. 北条家臣の筆頭だった松田憲秀が、長男の笠原政晴とともに豊臣方への内応をはかったとされます。
Q. 松田憲秀の内応はなぜ失敗したのですか?
A. 次男の直秀が当主の北条氏直に知らせたため発覚し、憲秀は捕らえられたといわれます。
Q. 松田憲秀はその後どうなりましたか?
A. 小田原開城後、秀吉から北条氏政・氏照・大道寺政繁とともに死を命じられました。最期の日付や場所ははっきりしません。
まとめ
『豊臣兄弟!』最終回で、秀長の書状に名が並ぶという「寝返りを誓った北条方の重臣」。史実でその代表にあげられるのが、北条家臣の筆頭・松田憲秀です。籠城を主張しながら豊臣方に通じようとし、実の息子の密告で発覚、北条家の降伏後には秀吉から死を命じられました。内応の中身には諸説ありますが、百年続いた北条家の最後を象徴するできごとのひとつといえます。
参考:BUSHOO!JAPAN「松田憲秀の生涯」/Weblio辞書「松田憲秀」

