幸村は九度山から大坂へ、どの川を渡ったのか|『真田十勇士』第3話の濁流の大河 ─ 紀の川と「橋本」の名の由来、当時の川の渡り方

大雨で増水した紀の川の濁流を前に立ち尽くす旅装の武士たちと渡し舟(イラスト)
この記事のポイント
  • 九度山は紀の川の南岸にあり、大坂へ向かうには、まず紀の川を北へ渡る必要がありました。紀の川は奈良の吉野から和歌山へ流れる大河で、九度山を出た一行にとって最初の難関でした
  • 対岸の橋本は、天正15年(1587)に高野山の僧・木食応其が紀の川に橋を架けたことから名づけられたと伝わります。ただ、その橋は長くはもたず、その後は渡し舟で川を渡っていたと考えられます
  • 紀の川を渡って紀見峠を越えると、河内へ下ります。いまの大阪で幸村の道を横切る大和川は、江戸時代の宝永元年(1704)に付け替えられた川で、慶長19年(1614)にはまだその場所を流れていませんでした
  • 戦国から江戸時代のはじめ、大きな川には橋が少なく、渡し舟や浅瀬の徒歩渡りが当たり前でした。増水すれば何日も渡れず、川は軍勢の行く手をはばむ大きな壁だったのです

11月6日に放送されるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第3話では、九度山を脱出した幸村(安藤政信さん)と十勇士の行く手を、橋のない濁流の大河がはばみます。猿飛佐助(岩本照さん)は先陣を切り、古参の勇士とともに命がけで川を渡ることを決断するようです。では、史実の真田信繁(幸村)が九度山から大坂へ向かったとき、どんな川を渡らなければならなかったのでしょうか。この記事では、九度山と大坂のあいだを流れる川と、当時の川の渡り方をたどります。

目次

九度山を出てすぐの難関 ─ 紀の川

九度山は、高野山のふもと、紀の川の南岸にある山里です。大坂へ向かう高野街道は、紀の川を北へ渡って橋本に出て、紀伊と河内の国境の紀見峠を越えていきます(九度山から大坂城まで、幸村はどの道を通ったのか)。つまり九度山を出た一行は、まず紀の川を渡らなければ、大坂への道に乗ることができませんでした。

紀の川は、奈良県の大台ヶ原を源とし、奈良では吉野川と呼ばれ、和歌山県に入って紀の川と名を変えて紀伊水道へ注ぐ、全長130キロあまりの大河です。上流の吉野の山々は雨の多い土地で、大雨が降ると水かさが一気に増し、濁流となって流れ下りました。九度山の慈尊院は、たびたびの洪水で境内を流され、少し高い場所へ移されたとも伝わっています(九度山とは)。

九度山から大坂城への道すじを示した略地図
九度山から大坂城へ。九度山を出てすぐに紀の川を渡り、橋本から紀見峠を越える(略図)

「橋本」の名は紀の川の橋から

九度山の対岸にある橋本は、その名のとおり「橋」にゆかりのある町です。天正15年(1587)、高野山の僧・木食応其が紀の川に橋を架け、その橋のたもとに町が開かれたことから「橋本」と呼ばれるようになったと伝わります。応其は豊臣秀吉の高野攻めのときに高野山を救った僧として知られ、秀吉の信頼も厚い人物でした(高野山はなぜ秀吉に焼かれなかったのか)。

ただ、この橋は長くはもたなかったようで、のちの時代には紀の川を渡し舟で渡っていました。橋本から少し下流の清水(いまの橋本市清水)には、高野街道の渡し場の跡が残り、江戸時代の宝暦2年(1752)の銘がある大きな常夜燈が立っています。信繁が九度山を出た慶長19年(1614)に、応其の橋がまだ残っていたのか、渡し舟だったのかはわかりませんが、大雨のあとなら川を渡ること自体が難しかったはずです。

▽ よく語られる話
昔の旅人は、川に架かった橋を渡って街道を進んだ。
▼ 史実ではこうです
戦国から江戸時代のはじめ、大きな川に橋が架かっていることはまれでした。大きな橋を架けるには多くの費用と技術が必要で、洪水のたびに流されてしまうからです。旅人や軍勢は、渡し舟に乗るか、浅瀬を歩いて渡るのがふつうでした。江戸時代には、大井川のように、守りのためにあえて橋を架けない川もありました。

当時、川はどうやって渡ったのか

当時の川の渡り方には、大きく分けて三つありました。

渡り方 どんなものか
渡し舟 川岸の渡し場から舟で向こう岸へ渡る。水量が多い大きな川ではこれがふつうで、増水すると舟を出せず、何日も足止めされた
徒歩渡り 浅瀬を選んで歩いて渡る。江戸時代の大井川などでは、川越人足に肩車や輦台で運んでもらった
橋 大きな川に橋が架かるのはまれで、架けても洪水で流されることが多かった。小さな川には板橋や土橋が架けられた

軍勢が川を渡るのは、さらに大変でした。数百人、数千人の兵と馬、荷物を舟で運ぶには時間がかかり、渡っているあいだは無防備になります。戦国時代の合戦では、川を渡る敵を岸で待ち受けて討つのが定石で、川は守る側にとっては天然の堀、攻める側にとっては大きな壁でした。九度山を抜け出した信繁の一行にとっても、紀の川を渡るあいだは、浅野家の追っ手に見つかれば逃げ場のない、いちばん危うい時間だったといえるでしょう(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。

紀見峠を越えた先の川 ─ 1614年の大和川はいまと違う場所に

紀の川を渡って紀見峠を越えると、道は河内の平地へ下り、河内長野から北へ、平野を経て大坂へ向かいます。いまの地図でこの道筋をたどると、大坂の手前で大きな大和川を渡ることになりますが、実は慶長19年(1614)には、大和川はその場所を流れていませんでした。

いまの大和川は、江戸時代の宝永元年(1704)に付け替えられた川です。それまでの大和川は、奈良盆地から河内に出たあと、石川と合流して北へ向きを変え、いくつもの川筋に分かれて淀川へ注いでいました。土砂がたまって川底が周りの田畑より高い天井川になり、たびたび洪水を起こしたため、幕府が大工事を行って、いまのように西へまっすぐ堺の北で海へ流れる川筋に付け替えたのです。信繁が大坂へ向かった道には、いまとはまったく違う川の景色が広がっていました。

ドラマ『真田十勇士』第3話の濁流の大河

第3話の予告では、九度山を出た幸村たちの前に、橋のない濁流の大河が立ちはだかり、柘植清弘(関口メンディーさん)との激突もあって、一行は絶体絶命の危機に陥ります。佐助は先陣を切り、古参の勇士とともに命がけの川越えに挑むようです(柘植清弘とは)。

史実の九度山から大坂への道で、最初に立ちはだかる大河といえば紀の川です。大雨で増水した紀の川を、追っ手から逃れながら渡るのは、まさに命がけだったはずです。ドラマがどんな川越えを描くのか、そして誰が佐助とともに川に挑むのかに注目したいところです(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 九度山から大坂へ行くには、どの川を渡ったのですか?
A. 九度山は紀の川の南岸にあるので、まず紀の川を北へ渡り、橋本に出る必要がありました。そこから紀見峠を越えて河内へ下ります。

Q. 当時の紀の川に橋はあったのですか?
A. 天正15年(1587)に木食応其が橋を架け、これが橋本の地名の由来になったと伝わります。ただ、橋は長くはもたず、のちには渡し舟で渡っていたと考えられます。

Q. 昔の人はどうやって大きな川を渡ったのですか?
A. 渡し舟に乗るか、浅瀬を歩いて渡るのがふつうでした。大きな川に橋が架かるのはまれで、増水すると何日も渡れないこともありました。

Q. 大坂の陣のころの大和川はどこを流れていたのですか?
A. いまの大和川は宝永元年(1704)に付け替えられた川です。それまでは石川と合流したあと北へ流れ、いくつもの川筋に分かれて淀川へ注いでいました。

まとめ

九度山を出た信繁の一行にとって、最初の難関は紀の川でした。対岸の橋本は、木食応其が架けた橋から名がついた町ですが、当時の大きな川は渡し舟や徒歩で渡るのがふつうで、増水すれば渡ることさえできませんでした。紀見峠を越えた先の河内では、大和川もいまとは違う場所を流れていました。ドラマの第3話で幸村たちの前に立ちはだかる濁流の大河は、当時の旅や戦で川がどれほど大きな壁だったかを思い起こさせてくれます。

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