※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 秀吉が「唐(明)」の名を手紙に書いたのは、関白になってわずか2か月後の天正13年(1585)9月です。九州もまだ従えていない時期でした
- 翌年、大坂城を訪ねたイエズス会のコエリョに、秀吉は「日本のことは弟の秀長に任せ、自分は唐を攻める」と語ったと記録されています
- 構想が手順に変わったのは天正15年6月、九州攻めを終えた筥崎でした。ここで対馬の宗氏に、朝鮮国王を日本に来させるよう命じています
天正14年(1586)の春、大坂城。イエズス会の日本準管区長ガスパール・コエリョの一行を前に、秀吉はこう語ったと、宣教師たちの記録は伝えています。日本の国内を平らげたら、日本のことは弟の秀長に任せる。自分は朝鮮と唐の国を攻めに行く。そのためにポルトガルの大きな船を2隻用意してほしい、と。
このとき秀吉はまだ九州にも手をつけていません。家康も臣従していません。朝鮮出兵の文禄元年(1592)までは、まだ6年あります。秀吉は、いつから、どのくらい本気で海の向こうを見ていたのでしょうか。残された手紙や記録を日付の順に並べてみると、ぼんやりした「夢」が少しずつ「手順」になり、やがて引き返せなくなっていく過程が見えてきます。出兵そのものについては朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説をご覧ください。

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秀吉の「唐入り」の言葉を日付順に並べる
| 時期 | 相手 | 記録に残る内容 | このときの秀吉 |
|---|---|---|---|
| 天正13年(1585)9月3日 | 家臣の一柳直末 | 日本はもちろん、唐の国まで(自分が)命じるつもりだ | 関白になって2か月。九州・関東・奥羽は従っていない |
| 天正14年(1586)3月 | イエズス会のコエリョ | 日本は秀長に任せ、自分は朝鮮と唐を攻める。ポルトガルの大船がほしい | 家康はまだ臣従前 |
| 天正14年4月 | 毛利輝元 | 九州のあとは高麗(朝鮮)へ渡る、という見通し | 九州攻めの準備中 |
| 天正14年6月 | 対馬の宗義調 | 九州を平らげたら朝鮮にも兵を向ける。そのときは従え | 島津との戦いが始まる直前 |
| 天正15年(1587)5月29日 | 妻の北政所 | 高麗に人を遣わし、唐の国まで手に入れるつもりだ | 島津の降伏から3週間 |
| 天正15年6月7日〜 | 宗義調・義智父子 | 朝鮮国王を日本に参上させよ | 筥崎で九州の国分け |
| 天正18年(1590)11月7日 | 朝鮮の通信使 | 聚楽第で引見。服属の使いと受け取り、明への先導を求める | 小田原・奥羽の平定後 |
この表のなかで、天正15年の筥崎を境に中身が変わっていることに注目してください。それより前は「いずれ攻める」という見通しの話です。筥崎からは、だれに何をさせるかという具体的な命令になっています。
第1段階:関白になってすぐ「唐」を口にした(天正13年)
いちばん古い証拠は、天正13年9月3日に家臣の一柳直末にあてた手紙です。秀吉は、日本はいうまでもなく、唐の国まで自分が治めるつもりだと書きました。関白になったのが7月ですから、わずか2か月後です。
この時点の秀吉は、四国を降したばかりでした。九州では島津が勢いを増し、東には家康と北条がいます。「天下統一」すらまだ道半ばの人物が、すでに海の向こうを口にしていたことになります。家臣を奮い立たせるための大きな言葉だったのか、本気の構想だったのか、ここだけでは判断できません。ただ、この言葉はこのあと何度もくり返されることになります。
第2段階:「日本は秀長に任せる」(天正14年)
冒頭のコエリョとの会見は、天正14年3月のことです。この記録で目を引くのは、秀吉が自分のいなくなったあとの日本を、弟の秀長に任せると語っていることです。
当時の秀長は、大和・紀伊・和泉を治める100万石の大名で、四国攻めの総大将も務めた、秀吉がもっとも信頼する身内でした。秀吉の頭の中では、自分が大陸へ渡り、秀長が日本を預かる、という役割分担が描かれていたことになります。宣教師の記録なので、言葉どおりかどうかには注意が必要ですが、秀長が「日本を任せられる人」と見られていたことはうかがえます。
同じ年の4月には毛利輝元へ、6月には対馬の宗義調へ、九州のあとは朝鮮へという見通しを伝えています。九州攻めは、秀吉にとって朝鮮へ向かう道の途中でもあったのです(島津はなぜあっさり秀吉に敗れたのか)。
第3段階:筥崎で「手順」になった(天正15年)
天正15年5月8日、島津義久が降伏します。その3週間後の5月29日、秀吉は妻の北政所に手紙を書き、高麗に人を遣わして、唐の国まで手に入れるつもりだと伝えました。戦に勝った高揚が、そのまま次の目標へ向かっているのがわかります。
そして6月、筥崎に入った秀吉は、対馬の宗義調・義智父子に、朝鮮国王を日本に参上させるよう命じました(天正十五年に何が起きたのか)。島津が琉球を従えているように、対馬の宗氏が朝鮮を従えていると、秀吉は考えていたようです。しかし実際の宗氏は、朝鮮との貿易で生きる立場で、朝鮮を従えるどころではありませんでした。
同じ筥崎で、秀吉は焼けた博多の町割りを命じ、バテレン追放令を出しています(博多の「太閤町割り」とは、秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。大陸への玄関口・博多を立て直し、南蛮貿易は手放さない。筥崎での一連の命令は、海の向こうを見すえた一つの流れとして読むこともできます。
誤解の積み重ね ─ 宗氏の苦しい立場
板ばさみになったのが宗氏です。秀吉の命令どおりに「朝鮮国王を参上させよ」とは、とても朝鮮に言えません。天正15年9月、宗氏は家臣の柚谷康広を「日本国王の使い」として朝鮮に送りますが、朝鮮は相手にしませんでした。この失敗で、康広は秀吉に処刑されたとも伝わります。
天正17年、宗義智はあらためて朝鮮に渡り、朝鮮が求めていた罪人を引き渡すなどして、ようやく通信使の派遣を取りつけます。天正18年11月7日、秀吉は聚楽第で朝鮮の通信使を迎えました(聚楽第とは)。朝鮮側にとっては、新しい日本の支配者を見に来た使いでした。ところが秀吉は、これを朝鮮が服属してきた使いだと受け取り、返事の手紙で、明を攻める先導をせよと求めます。
対馬が朝鮮を従えているという思い込み、それを正面から否定できない宗氏、そして通信使を服属と取り違えた秀吉。小さなずれが積み重なって、話はもう引き返せないところまで来ていました。
天正19年 ─ 止める人がいなくなった年
天正19年(1591)正月、秀長が亡くなります。コエリョに「日本を任せる」と語った、その弟です。2月には千利休が切腹し、8月には跡継ぎの鶴松がわずか3歳で世を去りました。そしてこの年の秋、秀吉は肥前名護屋に出兵の拠点となる城を築かせ始めます。
「日本は秀長に任せ、自分は唐へ」という構想は、皮肉なことに、秀長を失ったあとで実行に移されました。日本を預けるはずだった弟はもういません。秀吉は関白を甥の秀次に譲り、自分は太閤として名護屋へ向かいます。秀長が生きていたら出兵は止められたのか、という問いは、もし豊臣秀長があと十年生きていたらで考えています。
朝鮮出兵は、鶴松を亡くした秀吉が悲しみをまぎらすために思いついたものだ。
秀吉が「唐」を口にしたのは、鶴松の死の6年も前、関白になった直後です。天正15年には朝鮮との交渉も命じています。鶴松の死は出兵を急がせたかもしれませんが、思いつきの始まりではありませんでした。
よくある疑問
Q. 秀吉が初めて唐入りを口にしたのはいつですか?
A. 記録に残るいちばん古いものは、天正13年(1585)9月3日の一柳直末あての手紙です。関白になった2か月後でした。
Q. 「日本は秀長に任せる」というのは本当ですか?
A. 天正14年3月、大坂城でイエズス会のコエリョに語ったとして、宣教師の記録に残っています。宣教師側の記録なので、言葉どおりかどうかには注意が必要です。
Q. なぜ対馬の宗氏が朝鮮との交渉を任されたのですか?
A. 宗氏は朝鮮との貿易で結びついていたからです。秀吉は、宗氏が朝鮮を従えていると考えていたようですが、実際はそうではありませんでした。
Q. 朝鮮の通信使は何をしに来たのですか?
A. 新しい日本の支配者を見定めるための使いでしたが、秀吉はこれを服属の使いと受け取りました。
参考:『国史大辞典』「文禄・慶長の役」、北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』、フロイス『日本史』ほか
