※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 豊前国人一揆(ぶぜんこくじんいっき)は、天正15年(1587)10月、九州攻めのあと豊前に入った黒田孝高(官兵衛)の支配に、豊前の国人たちが反発して起こした一揆です
- 中心になったのは、鎌倉時代から400年近く豊前の城井谷を治めてきた名族・城井(宇都宮)鎮房でした。秀吉は鎮房に伊予への国替えを命じましたが、鎮房は先祖の地を離れることを拒みました
- 10月1日に一揆が始まると、黒田長政は城井谷に攻めこみましたが、山に囲まれた谷で大敗します。北野大茶湯が開かれたのと同じ日でした
- 黒田方は周りの国人の城を一つずつ落とし、追いつめられた鎮房は和睦に応じます。しかし天正16年4月20日、鎮房は中津城に招かれ、酒宴の席で討たれました
- 同じころ肥後でも国人一揆が起きていました。九州の国分けは、各地で古い国人と新しい領主の衝突を生んでいたのです
天正15年10月1日、京都の北野では北野大茶湯が華やかに開かれていました。ちょうど同じ日、九州の豊前では、新しい領主・黒田家に対する一揆が始まっています。肥後の国人一揆とならんで、九州攻めのあとの九州を揺るがした「豊前国人一揆」です。この記事では、一揆の中心となった城井鎮房と黒田家の戦い、そして鎮房の最期を紹介します。

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■
当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります
※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。
豊前国人一揆の流れ
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 天正15年(1587)6月 | 九州の国分け。城井鎮房には伊予への国替えが命じられる |
| 天正15年7月3日 | 黒田孝高に豊前6郡(約12万石)が与えられる。孝高は馬ヶ岳城に入る |
| 天正15年7月 | 肥後で国人一揆が起きる。孝高は肥後の鎮圧にも出向く |
| 天正15年10月1日 | 豊前の国人が各地で挙兵。黒田長政が出陣 |
| 天正15年10月 | 長政が城井谷に攻めこむが大敗。神楽山に砦を築いて城井谷を封じる |
| 天正15年11月〜12月 | 黒田方が上毛・下毛・宇佐の国人の城を次々に落とす |
| 天正15年12月ごろ | 鎮房が小早川隆景らを通じて和睦。嫡男・朝房と娘を人質に出す |
| 天正16年(1588)1月 | 孝高が中津城の築城を始める |
| 天正16年4月20日 | 鎮房が中津城の酒宴で討たれ、家臣も合元寺で討たれる。人質の娘らも処刑される |
城井鎮房とは ─ 400年続いた豊前の名族
城井氏は、下野の宇都宮氏の流れをくむ一族です。源頼朝の命で九州に下った宇都宮信房が豊前に領地を得たのが始まりとされ、南北朝のころから豊前の城井谷(いまの福岡県築上町)を本拠としました。豊前宇都宮氏とも呼ばれます。
戦国時代、城井氏は大友と島津という大きな勢力にはさまれながら、城井谷を守り続けました。鎮房はその当主で、九州攻めでは豊臣方に従っています。ところが戦後の国分けで、秀吉は鎮房に伊予への国替えを命じました。先祖代々の城井谷を離れることを、鎮房は受け入れられませんでした。
黒田孝高の豊前入り
7月3日、豊前6郡が黒田孝高に与えられます。九州攻めで先遣隊を率いて働いた孝高への恩賞でした(秀長の九州攻めをたどる)。孝高はまず馬ヶ岳城に入り、領国の支配を始めます。
しかし豊前には、城井氏のほかにも古くから土地に根を張った国人が数多くいました。新しく来た領主に従うことは、自分たちの土地と力を手放すことを意味します。しかも同じ7月には肥後で国人一揆が起き、孝高は鎮圧のために肥後にも出向かなければなりませんでした(肥後国人一揆とは)。
10月1日、一揆が始まる
10月1日、豊前の各地で国人たちが一斉に兵を挙げたという知らせが、馬ヶ岳城の黒田長政のもとに届きます。父の孝高は肥後に出ていました。長政はただちに出陣し、まず鎮房に味方した国人の城を落とすと、城井谷に攻めこみました。
城井谷は、山に囲まれた細長い谷で、奥に進むほど道が狭くなる天然の要害です。地の利を知りつくした城井勢に、2000余りの黒田勢は大敗しました。長政は無理に攻めることをやめ、谷の入口近くの神楽山に砦を築いて、城井谷との行き来を封じます。
京都で北野大茶湯が開かれたのと同じ日に、九州では新しい領主に対する戦いが始まっていたのです(北野大茶湯とは)。
追いつめられた鎮房と和睦
城井谷を正面から攻めるのをやめた黒田方は、周りの国人の城を一つずつ落としていきました。上毛・下毛・宇佐の国人が立てこもった城は、11月から12月にかけて次々に陥落します。味方を失った鎮房は孤立しました。
形勢が不利になった鎮房は、小早川隆景や安国寺恵瓊らを仲立ちに、和睦を申し入れます。嫡男の朝房と娘を人質に出すことで、ようやく戦いは収まりました。
中津城の酒宴 ─ 鎮房の最期
天正16年1月、孝高は新しい本拠として中津城の築城を始めました。そして4月20日、長政は鎮房を中津城に招きます。酒宴の席で、鎮房は討たれました。城下の合元寺に控えていた鎮房の家臣たちも、黒田勢に攻められて討ち死にします。合元寺の壁は、このとき流れた血が何度塗っても浮き出たため赤く塗られたと伝わり、いまも「赤壁寺」と呼ばれています。
さらに、人質となっていた鎮房の娘も処刑され、肥後に出ていた嫡男の朝房も討たれました。こうして、鎌倉時代から400年近く続いた豊前の城井氏は滅びます。
鎮房を謀殺したのは黒田長政の独断で、だまし討ちだった。
鎮房が酒宴の席で討たれたのは確かですが、その裏に、一揆の再発を防ぎたい秀吉の意向があったとする見方もあります。一方で、だまし討ちのやり方は後世まで語り継がれ、黒田家を怖れさせた「城井氏の祟り」の話も生まれました。
なぜ九州で一揆が相次いだのか
天正15年の秋、肥後と豊前で同時に国人一揆が起きたのは偶然ではありません。秀吉の国分けは、土地に古くから根を張ってきた国人たちを、新しく来た領主の下に置くものでした。城井氏のように国替えを命じられた者もいます。土地と結びついた国人の力を断ち、領主のもとに一つにまとめる。それが豊臣政権のねらいでしたが、その急なやり方が各地で反発を招いたのです。
秀吉は肥後の一揆の責任を問うて佐々成政を切腹させる一方、豊前では一揆の中心人物を討つことで支配を固めました。翌天正16年に出される刀狩令も、こうした一揆を二度と起こさせないための政策の一つでした(刀狩令とは)。
よくある疑問
Q. 豊前国人一揆はいつ起きましたか?
A. 天正15年(1587)10月1日に始まりました。北野大茶湯が開かれたのと同じ日です。
Q. 城井鎮房はなぜ一揆を起こしたのですか?
A. 九州の国分けで伊予への国替えを命じられ、400年近く治めてきた豊前の城井谷を離れることを拒んだためと考えられています。
Q. 城井鎮房はどのように亡くなりましたか?
A. 天正16年(1588)4月20日、和睦ののちに中津城に招かれ、黒田長政の酒宴の席で討たれました。
Q. 合元寺はなぜ赤い壁なのですか?
A. 鎮房の家臣たちがここで討たれ、その血が壁に何度もにじみ出たため赤く塗られたと伝わります。
参考:吉富町「黒田氏の入封と宇都宮氏の反抗」、築上町歴史散歩「戦国のムラ 城井谷」、『国史大辞典』「城井鎮房」ほか
