奥州仕置とは|小田原のあと秀吉は東北をどう決め直したのか ─ 改易された大崎・葛西、会津の蒲生氏郷、一揆と再仕置をわかりやすく【豊臣兄弟!】

岩出山城/アクセス・場所・地図 伊達政宗が仙台城へ居城を移すまで本城とした岩出山城
この記事のポイント
  • 奥州仕置(おうしゅうしおき)とは、天正18年(1590)、小田原の北条家を降した秀吉が、東北(奥羽)の大名たちの領地を決め直したことをいいます
  • 小田原に参陣しなかった大崎・葛西・石川・和賀・稗貫などの諸氏は領地を取り上げられ、伊達政宗も会津など3郡を失いました。南部・最上・相馬・津軽・秋田などは領地を認められました
  • 会津には蒲生氏郷が42万石で入り、葛西・大崎の旧領には木村吉清が30万石で入りました。検地も行われ、奥羽の大名は豊臣政権のしくみに組みこまれます
  • しかし、仕置のあと奥羽では葛西大崎一揆や九戸政実の乱が起き、翌天正19年にもう一度大軍が送られました(再仕置)。秀吉の天下統一は、この再仕置で仕上がったといえます

天正18年(1590)7月、小田原城が開城し、北条家は滅びました。しかし、秀吉の天下統一はそこで終わりではありません。秀吉はそのまま北へ向かい、東北の大名たちの領地を決め直しました。これが奥州仕置です。この記事では、奥州仕置で誰がどうなったのか、そしてそのあと何が起きたのかをわかりやすく紹介します。

目次

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奥州仕置はいつ、どのように行われたのか

日付(天正18年) できごと
7月5日 北条氏直が降伏し、小田原城が開城
7月17日 秀吉が小田原を出て北へ向かう
7月26日 秀吉が宇都宮城に入り、関東・奥羽の大名の処分を始める(宇都宮仕置)
8月6日 仕置の軍が白河に着く
8月9日 仕置の軍が会津黒川城に入る

秀吉は小田原から宇都宮に入り、関東と奥羽の大名たちの処分を決めました。その後、仕置の軍は白河をこえて会津の黒川城(のちの会津若松城)に入ります。こうして、奥羽の大名たちの領地が次々に決め直されました(会津若松城)。

誰がどうなったのか

処分を分けたのは、小田原に参陣したかどうかでした。秀吉のもとに駆けつけた大名は領地を認められ、来なかった大名は領地を取り上げられたり、減らされたりしました。

処分 主な大名・家
領地を取り上げ(改易) 大崎・葛西・石川・江刺・留守・和賀・稗貫など
領地を減らされた 伊達政宗(会津・岩瀬・安積の3郡を没収)、白河(結城)・田村・黒川など
領地を認められた 南部信直・最上義光・相馬義胤・岩城・津軽為信・戸沢・秋田実季・小野寺など
新しく入った 蒲生氏郷(会津42万石)、木村吉清(葛西・大崎30万石)

伊達政宗は小田原に遅れて参陣したため、改易はまぬがれましたが、前の年に蘆名家から奪った会津などを取り上げられました(伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのか)。会津には、信長の娘婿で秀吉の信頼も厚い蒲生氏郷が入り、伊達家ににらみをきかせる役目を負います。

岩出山城跡
再仕置のあと伊達政宗が移った岩出山城の跡(岩出山城)

検地と「豊臣の大名」への組みかえ

奥州仕置では、浅野長政らが中心となって検地が行われました。検地によって、それぞれの大名の領地の石高が決まり、石高に応じた軍役が課されるようになります。

領地を認められた大名たちも、ただ元のままでいられたわけではありません。豊臣政権に認められた大名として、家臣たちを従え、領地をおさめるしくみに組みこまれていきました。奥州仕置は、東北の大名たちが中世の領主から近世の大名へと変わるきっかけになったのです(豊臣平和令とは)。

仕置のあとに起きた一揆

しかし、奥州仕置はすんなりとは終わりませんでした。領地を取り上げられた大名の家臣や、検地に反発する人々が、各地で一揆を起こしたのです。

一揆・反乱 内容
葛西大崎一揆 葛西・大崎の旧臣たちが、新しく入った木村吉清に対して起こした一揆。伊達政宗が裏で動かしたという疑いもかけられた
和賀・稗貫一揆 領地を取り上げられた和賀・稗貫の旧臣たちの一揆
仙北一揆・藤島一揆 出羽で起きた検地への反発
九戸政実の乱 南部家の一族・九戸政実が、当主の南部信直に対して起こした反乱

葛西大崎一揆の責任を問われた木村吉清は、領地を取り上げられました。一揆を裏で動かしたと疑われた政宗は、秀吉のもとに呼び出され、なんとか疑いを晴らしたと伝わります。

天正19年の再仕置 ─ 天下統一の仕上げ

相次ぐ一揆をしずめるため、秀吉は天正19年(1591)、豊臣秀次を総大将に、徳川家康や蒲生氏郷らの大軍を奥羽に送りました。これを「再仕置」といいます。九戸政実は九戸城にこもって戦いましたが、9月に降伏し、処刑されました。

再仕置のあと、伊達政宗は葛西・大崎の旧領に移されて約58万石となり、本拠を岩出山城に移しました。一方、会津の蒲生氏郷は約92万石に加増されます。こうして奥羽の大名の配置が決まり、秀吉の天下統一は名実ともに仕上がりました。

この年の1月22日、秀吉を支えた弟の秀長は、すでに大和郡山城で亡くなっていました(秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか)。天下統一の仕上げは、秀長のいない豊臣政権で行われたのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
公式ガイドで伝えられている最終回(第47回・12月6日放送予定)では、秀吉が北条討伐のため小田原攻めを決め、北条の降伏によって天下統一がなる、という流れになるようです。奥州仕置はドラマの最後に描かれるかどうかわかりませんが、天下統一がどう締めくくられるのかに注目です。放送後にこの枠を更新します。

あわせて読みたい:天正十八年に何が起きたのか(『豊臣兄弟!』第46回の予習に)

よくある質問

Q. 奥州仕置とは何ですか?
A. 天正18年(1590)、小田原の北条家を降した秀吉が、東北(奥羽)の大名たちの領地を決め直したことです。

Q. 奥州仕置の読み方は?
A. 「おうしゅうしおき」です。

Q. 奥州仕置で領地を取り上げられたのは誰ですか?
A. 小田原に参陣しなかった大崎・葛西・石川・和賀・稗貫などの諸氏です。伊達政宗も会津など3郡を取り上げられました。

Q. 奥州仕置のあと何が起きたのですか?
A. 葛西大崎一揆や九戸政実の乱などが起き、秀吉は翌天正19年に秀次を総大将とする大軍を送って再仕置を行いました。

Q. 会津は誰のものになったのですか?
A. 蒲生氏郷が42万石で入り、再仕置のあと約92万石に加増されました。

まとめ

奥州仕置は、天正18年、北条家を降した秀吉が東北の大名たちの領地を決め直したできごとです。小田原に来なかった大崎・葛西などは領地を失い、伊達政宗も会津を取り上げられました。会津には蒲生氏郷が入り、検地によって奥羽の大名は豊臣政権のしくみに組みこまれます。しかしその後、葛西大崎一揆や九戸政実の乱が起き、翌年の再仕置でようやく天下統一は仕上がりました。

参考:『伊達家文書』/『浅野家文書』/小林清治『奥羽仕置と豊臣政権』吉川弘文館

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