伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのか|白装束(死装束)の話は本当か ─ 底倉の詰問、「利休の茶の湯を習いたい」、会津3郡の没収【豊臣兄弟!】

小田原征伐のイメージイラスト:石垣山城から見下ろす包囲陣と、海を封鎖する水軍
この記事のポイント
  • 伊達政宗が小田原の秀吉の陣に着いたのは、天正18年(1590)6月5日です。秀吉が京を出陣してから3か月以上も遅れての参陣でした
  • 遅れた理由は、秀吉の命令にそむいて会津の蘆名家を滅ぼしていたこと、家中で秀吉につくか北条につくかの意見が割れたこと、出発後にいったん引き返したことなどです
  • 小田原に着いた政宗は箱根の底倉に押しこめられ、前田利家らの詰問を受けました。このとき「死ぬ前に千利休の茶の湯を習いたい」と言ったという話が伝わります
  • 有名な「白装束(死装束)で秀吉の前に出た」という話は、確かな史料では確かめられていません。政宗は会津など3郡を取り上げられましたが、伊達家は生きのこりました

天正18年(1590)の小田原攻めで、もっとも劇的な場面の一つが、伊達政宗の遅れての参陣です。死を覚悟して白装束で秀吉の前に出た、という話はよく知られています。では、政宗はなぜ小田原に遅れたのでしょうか。白装束の話は本当なのでしょうか。この記事では、政宗の小田原参陣の経緯を日付を追って整理し、伝わる逸話がどこまで確かなのかを紹介します。

目次

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なぜ遅れたのか ─ 三つの理由

① 秀吉の命令にそむいて会津を取っていた

秀吉は天正15年(1587)ごろから、関東と奥羽の大名たちに、勝手な戦をやめるよう命じていました。これを「惣無事(そうぶじ)」といいます(九州停戦令(惣無事令)とは)。ところが政宗は天正17年(1589)6月、摺上原の戦いで会津の蘆名家を破り、会津を自分のものにしました。秀吉から上洛を求められても、応じていません。

秀吉の命令にそむいたまま、秀吉の陣へ出向けば、どんな罰を受けるかわかりません。それが、政宗がなかなか動けなかった一番の理由でした。

② 家中の意見が割れた

伊達家の中では、秀吉に従うべきだという意見と、北条家と結んで秀吉と戦うべきだという意見がぶつかりました。3月25日、政宗は黒川城(のちの会津若松城)で評定を開き、秀吉につくことを決めます。秀吉に使いを送り、4月6日に出陣すると伝えました。

③ 出発の直前と出発後の混乱

ところが出陣の直前、伊達家では大きな事件が起きたと伝わります。4月5日、政宗は母の義姫の館で毒を盛られ、一命をとりとめたあと、弟の小次郎を斬ったというのです。ただし、この毒殺未遂の話には、後の時代の創作ではないかという見方もあります。

政宗は4月15日にようやく出発しましたが、南会津の大内まで進んだところで引き返しています。北条の領地を通るのが難しくなったことなどが理由とされます。5月9日に出なおし、越後・信濃・甲斐を回る道をとって、小田原をめざしました。

日付(天正18年) できごと
3月1日 秀吉が京を出陣
3月25日 政宗、黒川城の評定で秀吉につくことを決める
4月5日 母の館で毒を盛られ、弟の小次郎を斬ったと伝わる
4月15日 出発するが、大内で引き返す
5月9日 あらためて出発
6月5日 小田原に到着。底倉に押しこめられる
6月9日 秀吉に対面
7月5日 北条氏直が降伏し、小田原城が開城
小田原征伐のイメージイラスト:石垣山から小田原城を見おろす
小田原を囲む秀吉の軍(イメージ)。政宗が着いたのは、包囲が始まって2か月以上たってからでした

底倉の詰問と「利休の茶の湯を習いたい」

6月5日に小田原に着いた政宗は、すぐには秀吉に会わせてもらえず、箱根の底倉に押しこめられました。連れてきた兵はわずか百騎ほどだったといいます。家臣の片倉景綱は、主君が斬られることを覚悟したと伝わります。

やがて前田利家や浅野長政らが、秀吉の使いとして底倉を訪れ、政宗を問いただしました。政宗は、会津を攻めた理由を説明したといいます。そしてこのとき、「死ぬ前に、千利休から茶の湯の手ほどきを受けたい」と願い出た、という話が伝わります。死を前にしても茶の湯を学びたいという政宗の度胸と風流を、秀吉が気に入ったというのです(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。

白装束の話は本当か

6月9日、政宗はついに秀吉に対面しました。このとき政宗は、髪を水引で結び、白装束(死装束)を着て現れた、という話が広く知られています。死を覚悟した姿で秀吉の前に出て、許しを得たというのです。秀吉が杖で政宗の首を軽くたたき、「もう少し遅かったら、ここが危なかった」と言った、という逸話もあります。

しかし、白装束の話は、確かな史料では確かめられていません。この話のもとになったとされる江戸時代の聞き書き『乙夜之書物(いつやのかきもの)』を検討した歴史研究者の萩原大輔氏は、そこに政宗が白装束だったという記述はないと指摘しています。

▽ よく語られる話
伊達政宗は白装束(死装束)で秀吉の前に現れ、その覚悟が認められて許された。
▼ 史実ではこうです
白装束の話を裏づける確かな史料は見つかっていません。確かなのは、政宗が6月9日に秀吉に対面し、その後秀吉から茶の湯に招かれ、茶器や刀剣を見せられたことです。これは政宗自身が6月14日に書いた手紙に書かれています。

政宗の手紙によれば、秀吉は対面のあと政宗を茶の湯の席に招き、自慢の茶器や刀剣を見せたといいます。秀吉は、遅れてきた政宗を許し、もてなすことで、天下人の度量を見せたのでしょう。白装束がなくても、この場面は十分に劇的だったといえます。

政宗への処分

秀吉は政宗の遅参そのものよりも、命令にそむいて会津を攻めたことを問題にしました。政宗は、会津・岩瀬・安積の3郡を取り上げられます。ただし、それ以外の伊達家の領地はそのまま認められました。会津は、のちに蒲生氏郷に与えられます(奥州仕置とは)。

伊達政宗生誕之地の碑(米沢城跡)
米沢城跡に立つ伊達政宗生誕之地の碑。伊達家は小田原参陣で生きのこりました

もし政宗が最後まで参陣しなかったら、伊達家は北条家と同じ道をたどったかもしれません。遅れてでも小田原に向かったことで、伊達家は生きのこり、のちに仙台62万石の大名として江戸時代を迎えることになります(伊達政宗はなぜ仙台城に天守を建てなかったのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
公式ガイドで伝えられている最終回(第47回・12月6日放送予定)では、秀吉が北条討伐のため小田原攻めを決め、北条の降伏によって天下統一がなる、という流れになるようです。政宗の小田原参陣がドラマで描かれるかどうかはわかりませんが、天下統一の最後の場面として注目です。放送後にこの枠を更新します。

あわせて読みたい:天正十八年に何が起きたのか(『豊臣兄弟!』第46回の予習に)

よくある質問

Q. 伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのですか?
A. 秀吉の命令にそむいて会津の蘆名家を滅ぼしていたこと、家中の意見が割れたこと、出発後にいったん引き返したことなどが理由です。

Q. 政宗はいつ小田原に着いたのですか?
A. 天正18年(1590)6月5日です。秀吉に対面したのは6月9日でした。

Q. 白装束(死装束)の話は本当ですか?
A. 確かな史料では確かめられていません。もとになったとされる『乙夜之書物』にも、白装束の記述はないと指摘されています。

Q. 政宗はどんな処分を受けたのですか?
A. 会津・岩瀬・安積の3郡を取り上げられましたが、それ以外の領地は認められ、伊達家は生きのこりました。

Q. 「利休の茶の湯を習いたい」と言ったのは本当ですか?
A. 詰問の場でそう願い出たという話が伝わりますが、後の時代の逸話の可能性もあります。秀吉が対面のあと政宗を茶の湯に招いたことは、政宗の手紙で確かめられます。

まとめ

伊達政宗が小田原に着いたのは天正18年6月5日、秀吉の出陣から3か月以上たってからでした。命令にそむいて会津を取っていたこと、家中の対立、出発後の引き返しなどが遅れた理由です。白装束で秀吉の前に出たという有名な話は、確かな史料では確かめられていません。それでも政宗は許され、会津など3郡を失っただけで伊達家を守りました。遅れてでも小田原へ向かった決断が、仙台62万石への道を開いたのです。

参考:伊達政宗書状(天正18年6月14日)/『貞山公治家記録』/萩原大輔の研究(『乙夜之書物』の検討)

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