秀吉はなぜ大茶会を開いたのか|信長の「御茶湯御政道」、禁中茶会、黄金の茶室、北野大茶湯 ─ 茶会で見せた5つの狙い

北野の松原に茶席が並び、中央に黄金の茶室が置かれた秀吉の大茶会のイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 秀吉が茶会を開いたのは、ただの派手好きではありません。茶会は、天下人の力を「見せる」ための政治の舞台でした
  • もとは信長の「御茶湯御政道」。信長は家臣が勝手に茶会を開くことを許さず、手柄を立てた者にだけ許しました。秀吉はこの仕組みを受け継いだ後継者だと示そうとしました
  • 茶会はそれぞれ見せる相手が違いました。禁中茶会は天皇と公家、大坂城の茶会は大名、北野大茶湯は京の町の人々と庶民に向けたものです
  • 茶室は大名を従わせ、もてなし、内々の話をする場でもありました。その場を仕切ったのが千利休でした
  • 成り上がりの秀吉にとって、茶の湯は家柄の代わりに「格」を手に入れる道具でもありました

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回のサブタイトルは「北野大茶湯」です。秀吉は北野大茶湯のほかにも、天皇の御所で茶会を開き、黄金の茶室を運び込み、大坂城に大名を集めて茶をふるまいました。天下統一の戦いのさなかに、なぜ秀吉はこれほど茶会に力を入れたのでしょうか。この記事では、秀吉が大茶会を開いた理由を五つに分けて考えます。北野大茶湯そのものの中身は北野大茶湯とはで紹介しています。

北野の松原に茶席が並び、中央に黄金の茶室が置かれた秀吉の大茶会のイメージ(イラスト)
秀吉の大茶会のイメージ(イラスト)
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

秀吉の主な茶会を年表で見る

時期 茶会 見せた相手
信長の家臣時代 手柄により信長から茶会を開くことを許される 信長と織田家中
天正10年(1582) 信長の死後、書状で「御茶湯御政道」を許された身だと強調 織田家の重臣
天正13年(1585)10月 禁中茶会。関白となった秀吉が正親町天皇に茶を献じる 天皇・公家
天正14年(1586)正月 黄金の茶室を御所に運び込んで茶会 天皇・公家
天正14年(1586)4月 大坂城で大友宗麟をもてなし、黄金の茶室を見せる 九州の大名
天正15年(1587)正月 大坂城で大名を集めた大茶会 諸大名
天正15年(1587)10月1日 北野大茶湯。身分を問わずだれでも参加できるとした 京の町の人々・庶民
慶長3年(1598)3月 醍醐の花見(茶屋を設けた盛大な宴) 豊臣家の女性たちと大名

並べてみると、茶会の舞台は年を追うごとに大きくなり、見せる相手も、天皇・公家から大名へ、そして町の人々へと広がっていったことがわかります。

理由①:信長の後継者であることを示すため

茶の湯を政治に使い始めたのは信長でした。信長は名物と呼ばれる高価な茶道具を集め、家臣が勝手に茶会を開くことを許しませんでした。茶会を開けるのは、手柄を立てて信長に認められた者だけです。これを「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼びます。名物の茶道具は、土地に代わるほうびにもなりました。

秀吉は信長の家臣時代に茶会を開くことを許され、茶道具も与えられました。本能寺の変のあと、秀吉は信長の三男・信孝の家臣にあてた書状で、「御茶湯御政道」のなかで自分は茶会を許されていた、と書いています。信長に認められた者として、その後を継ぐのは自分だと言いたかったのです。秀吉にとって茶会を開くことは、信長の政治を受け継いでいることを示す行いでした。

理由②:天皇と公家に権威を見せるため

天正13年(1585)7月、秀吉は関白になります。その年の10月、秀吉は御所で正親町天皇に茶を献じる禁中茶会を開きました。このとき茶頭を務めた宗易は、宮中に上がるために「利休」の居士号を与えられたと伝わります。千利休という名は、この茶会から始まったのです。

翌天正14年の正月には、組み立て式の黄金の茶室を御所に運び込み、天皇や公家に茶をふるまいました(秀吉の黄金の茶室とは)。武家の出でない秀吉が、天皇のそばで茶会を開ける身分になったことを、目に見える形で示したのです。

理由③:大名を従わせ、もてなすため

茶室は、大名をもてなし、従わせる場でもありました。天正14年4月、島津に攻められて助けを求めに来た豊後の大友宗麟は、大坂城で黄金の茶室を見せられ、利休の茶でもてなされます。宗麟は国元への手紙に「内々のことは宗易(利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と書いたと伝わります。秀吉への取り次ぎは、表は弟の秀長、裏は茶の湯の利休が担っていたのです。

天正15年の正月には、大坂城に大名を集めて大茶会を開き、自分が集めた名物の茶道具を並べて見せました。名物を持ち、それで茶をふるまえることが、天下人の力そのものでした。大名にとっても、秀吉の茶会に招かれ、ときに茶道具を与えられることは、何よりの名誉になりました。茶の湯は、主従の関係を確かめる儀式でもあったのです(天下三宗匠とは、利休七哲とは)。

理由④:京の町の人々に天下人を見せるため

天正15年10月1日の北野大茶湯は、それまでの茶会と大きく違いました。若党・町人・百姓まで、身分を問わずだれでも参加してよいとしたのです。茶道具は釜一つでよく、茶がなければ麦こがしでもかまわない、という呼びかけでした(北野大茶湯に庶民はどう参加したのか)。

このとき秀吉は九州攻めを終えて京に戻り、9月には新しい城館・聚楽第が完成していました。北野大茶湯には、九州平定と聚楽第の完成を祝い、京の人々に新しい天下人の姿を見せる狙いがあったと考えられています。天皇や大名だけでなく、町の人々まで茶会に招いて、天下のすべての人が自分の下にいることを示そうとしたのです。もっとも、10日間の予定は1日で打ち切られました(北野大茶湯で刃傷沙汰は本当にあったのか)。

理由⑤:成り上がりの秀吉が「格」を手に入れるため

秀吉は農民の出で、家柄も先祖もありません。戦に勝って領地を広げることはできても、公家や古い大名家が持つ「格」は、戦では手に入りません。そこで大きな意味を持ったのが、茶の湯という文化でした。名物を持ち、一流の茶人を従え、天皇の前で茶をふるまう。そうすることで、秀吉は文化の面でも天下人であることを示せました。

そしてもう一つ、秀吉自身が茶の湯を心から好んでいたことも忘れてはいけません。華やかな黄金の茶室を作る一方で、北野大茶湯では利休らと並んで自ら茶を点てています。政治の道具であると同時に、秀吉にとって茶会は大きな楽しみでもあったのでしょう。

よく語られる話

秀吉は派手好きで、自分の富を見せびらかすために大茶会を開いた。

史実ではこうです

派手さには理由がありました。茶会は相手ごとに狙いを変えた政治の舞台で、信長の後継者であること、天皇に近い関白であること、大名の主であることを、それぞれの相手に見せる場でした。

茶の湯の政治はその後どうなったか

茶の湯が政治の道具になるほど、それを取り仕切る利休の力も大きくなりました。天正19年(1591)正月に秀長が亡くなり、翌2月には利休が秀吉の命で切腹します。表と裏の取り次ぎ役が、相次いでいなくなったのです(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。それでも秀吉は、朝鮮出兵の拠点・名護屋で仮装の瓜畑遊びを開き、亡くなる年には醍醐の花見を催しました。人を集めて楽しませ、天下人の姿を見せるやり方は、最後まで変わらなかったのです(北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見はどう違う?)。

よくある疑問

Q. 「御茶湯御政道」とは何ですか?
A. 信長が茶の湯を家臣の統制に使ったやり方です。茶会を開くことを許可制にし、名物の茶道具をほうびとして与えました。

Q. 秀吉が初めて天皇の前で茶会を開いたのはいつですか?
A. 関白になった天正13年(1585)の10月です。このとき宗易が「利休」の号を与えられたと伝わります。

Q. 北野大茶湯の狙いは何だったのですか?
A. 九州平定と聚楽第の完成を祝い、身分を問わず京の人々を招いて、天下人の姿を見せることだったと考えられています。

Q. 茶会は秀吉の趣味だったのですか?
A. 秀吉は茶の湯を好みましたが、それだけではなく、権威を見せ、大名を従える政治の場として使いました。

参考:『国史大辞典』「北野大茶湯」「千利休」、熊倉功夫『千利休』ほか

  • URLをコピーしました!
目次