大坂城の浪人はどう雇われたのか|安藤政信が演じる幸村への支度金「黄金二百枚・銀三十貫」 ─ 秀吉の遺した金銀と千枚分銅、豊臣家は何を約束したのか|ドラマ『真田十勇士』第2話予習

大坂城の広間で、役人が金の大判を数えて浪人たちに支度金を渡すイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 大坂の陣で豊臣家が浪人を集められたのは、秀吉が大坂城に遺した莫大な金銀があったからです。豊臣家は支度金を払い、兵糧を用意して、全国の浪人を雇い入れました
  • 徳川方の記録『駿府記』には、秀頼が九度山の信繁に、当座の支度金として黄金二百枚と銀三十貫目を届けたと記されています。勝ったあかつきには五十万石を与えると約束したとも伝わりますが、こちらは確かめられません
  • 秀吉が蓄えた「千枚分銅」と呼ばれる巨大な金塊を鋳つぶして大判にし、浪人への支払いにあてたとも伝わります。夏の陣で落城したあとも、焼け跡から黄金二万枚あまりが見つかったと記録されています
  • 雇われた浪人は豊臣家の家臣ではなく、戦のために集められた人びとでした。大将たちは兵を預かりながらも、豊臣家の重臣たちと対等ではない立場に置かれていました
  • 冬の陣の和議のあとも浪人を雇い続けたことは、徳川方に再戦の口実を与えることになりました

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、九度山の幸村(安藤政信さん)のもとに、豊臣の使いを名のる男が大坂へ来てほしいと頼みに来ました。その使いは徳川の罠でしたが、史実の九度山にも、慶長19年(1614)に豊臣家の使者がやって来ています。このとき使者が持ってきたのは、言葉だけではありませんでした。この記事では、豊臣家が全国の浪人をどうやって雇い入れたのか ─ 支度金はいくらで、何が約束され、そのお金はどこから出ていたのかをたどります。

目次

浪人を雇えたのは、秀吉の遺した金銀があったから

関ヶ原の戦いのあと、豊臣家は摂津・河内・和泉の六十五万石ほどを治める一大名になっていました。それでも、豊臣家には秀吉の時代から蓄えてきた莫大な金銀がありました。秀吉は全国の金山・銀山を押さえ、天正大判などの金貨をつくり、その金銀の多くを大坂城の蔵に納めていたのです(姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」の天正大判もあわせてどうぞ)。

大坂城の石垣普請のイメージイラスト
秀吉が築いた大坂城(イメージ)。その蔵に蓄えられた金銀が、浪人を雇う元手になった

慶長19年、方広寺の鐘銘をめぐって徳川との仲が決裂すると、豊臣家はこの金銀を使って戦の準備を始めます(方広寺鐘銘事件とは)。領地からの年貢だけでは、十万人ともいわれる兵を養うことはできません。全国の浪人に声をかけ、支度金を払い、兵糧や武具を買い集めることができたのは、秀吉の遺産があったからでした(大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか)。

信繁への支度金 ─ 黄金二百枚と銀三十貫目

九度山の信繁のもとに豊臣家の使者が来たときのことを、徳川方の記録『駿府記』は、秀頼が当座の支度金として黄金二百枚と銀三十貫目を届けさせたと記しています。ここでいう黄金一枚は大判一枚のことで、金の重さにしておよそ百六十グラム余り。二百枚なら金だけで三十キロを超える大金です。流人として兄の仕送りに頼り、お金の工面を頼む手紙を書いていた信繁にとっては、思いもよらない額だったはずです(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。

大坂城の広間で、役人が金の大判を数えて浪人たちに支度金を渡すイメージ(イラスト)
大坂城で浪人たちに渡された支度金(イメージ)

信繁はこの支度金で、九度山を出る準備を整えたと考えられます。一族や家臣を連れ、途中で加わった地侍たちとともに大坂へ向かうには、旅の費用や武具、兵の食料が欠かせません。九度山を抜け出したという話が語り継がれる一方で、その裏には、豊臣家が用意した金銀という現実の支えがあったのです(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

豊臣家が浪人に用意したもの 伝わっている内容
支度金 信繁には黄金二百枚・銀三十貫目(『駿府記』)。ほかの浪人にも身分に応じて金銀が渡されたと考えられる
兵糧・武具 大坂城の蔵の米に加え、商人から米や鉄砲の玉薬を買い集めた
身分 名のある浪人には大将として兵を預け、一手の持ち場を任せた
恩賞の約束 勝ったあかつきの所領。信繁には五十万石を約束したとも伝わるが、確かな史料では確かめられない

秀吉の「千枚分銅」と、焼け跡に残った黄金

秀吉は、金を「分銅」と呼ばれる大きな塊にして大坂城に蓄えていました。中でも「千枚分銅」は、大判千枚分にあたる金を一つの塊にした巨大なもので、いざというときの備えだったといわれます。大坂の陣のとき、豊臣家はこうした分銅を鋳つぶして大判にし、浪人への支払いや兵糧の買い入れにあてたと伝わります。

それでも、豊臣家の金銀は使い切られてはいませんでした。『駿府記』によると、夏の陣で大坂城が落ちたあと、焼け跡から黄金二万八千六十枚、銀二万四千枚が見つかったといいます。どこまで正確な数字かはわかりませんが、豊臣家が最後まで莫大な金銀を抱えていたことは確かなようです。兵を雇うお金はあっても、それを使って戦に勝つ力は残っていなかったということかもしれません(家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのか)。

▽ よく語られる話
大坂城に集まった浪人たちは、豊臣家への恩義と忠義だけで、命をかけて戦いに加わった。
▼ 史実ではこうです
豊臣家への恩を感じて大坂城に入った浪人がいたことは確かですが、豊臣家が支度金を払い、勝てば所領を与えると約束して浪人を集めたことも事実です。浪人たちの多くは、関ヶ原のあとに主家や領地を失った人びとで、もう一度武士として取り立てられることを願っていました。忠義だけでなく、暮らしと家の再興がかかった選択でもあったのです。

雇われた浪人の立場 ─ 兵を預かっても家臣ではない

大坂城に入った浪人の大将たちは、それぞれ兵を預かり、城の持ち場を任されました。信繁は城の南に出城の真田丸を築き、冬の陣で徳川方を打ち破っています(真田丸とは)。けれども、浪人たちはあくまで戦のために雇われた人びとで、豊臣家の代々の家臣ではありません。

豊臣家の方針を決めていたのは、淀殿と、そのそばに仕える大野治長ら重臣たちでした。浪人の大将が出撃の策を唱えても、重臣たちの判断で退けられることもありました。信繁が大坂城で、豊臣家の家臣たちからねたまれて苦労していると書き送った手紙も伝わっています。お金で雇われた者と、もとからの家臣とのあいだには、見えない壁があったのです(大野治長はなぜ籠城を選んだのか)。

和議のあとも浪人を抱え続けた豊臣家

冬の陣の和議では、城に籠もった浪人たちの罪は問わないことが取り決められました。ところが和議のあとも、多くの浪人は大坂城にとどまり、豊臣家は彼らを抱え続けます。堀を埋められた城で、なお大勢の兵を養い続けることは、徳川方から見れば再び戦う準備をしているのと同じでした(大坂城の堀はどこまで埋められたのか)。

家康は豊臣家に、秀頼が大坂城を出てほかの国へ移ること、または浪人たちを城から追い出すことを求めました。浪人を手放せば豊臣家は戦う力を失い、手放さなければ戦になる。豊臣家はこの求めを受け入れず、慶長20年(1615)の夏の陣へと進んでいきました。お金で集めた力が、最後は戦を避けられなくする理由にもなったのです(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

ドラマ『真田十勇士』と豊臣の使い

ドラマ第1話では、豊臣の使いを名のる男が九度山を訪れましたが、その正体は徳川方の人間で、家康(内藤剛志さん)が仕掛けた罠でした。史実では、豊臣家の本物の使者が支度金を携えて九度山を訪れ、信繁はそれに応えて大坂城に入っています。ドラマの幸村が、どんな形で豊臣家の誘いを受け、大坂城へ向かうのかが第2話以降の見どころです(九度山から大坂城まで、幸村はどの道を通ったのか)。

主を持たずに盗みで生きてきた佐助(岩本照さん)と、お金で雇われて戦う浪人たち。誰のために、何のために戦うのかという問いは、ドラマの十勇士にも、史実の大坂城に集まった浪人たちにも重なっているのかもしれません(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 真田幸村(信繁)は豊臣家からいくらもらったのですか?
A. 徳川方の記録『駿府記』には、秀頼が当座の支度金として黄金二百枚と銀三十貫目を届けたと記されています。

Q. 幸村は五十万石を約束されたのですか?
A. 勝ったあかつきに五十万石を与えると約束されたという話が伝わっていますが、確かな史料では確かめられません。

Q. 豊臣家はどうやって浪人を雇うお金を用意したのですか?
A. 秀吉が大坂城に蓄えていた金銀を使いました。金の大きな塊である分銅を鋳つぶして大判にし、支払いにあてたとも伝わります。

Q. 大坂城が落ちたとき、金銀は残っていたのですか?
A. 『駿府記』によると、焼け跡から黄金二万八千枚あまり、銀二万四千枚が見つかったとされます。

まとめ

豊臣家が大坂の陣で全国の浪人を集められたのは、秀吉が大坂城に遺した莫大な金銀があったからでした。信繁には黄金二百枚と銀三十貫目の支度金が届けられたと記録され、分銅を鋳つぶした大判が浪人への支払いにあてられたとも伝わります。けれども、お金で雇われた浪人は豊臣家の家臣ではなく、重臣たちとのあいだには壁があり、和議のあとも浪人を抱え続けたことが再戦の口実にもなりました。九度山の信繁を大坂へ向かわせたものの一つは、こうした豊臣家の金銀だったのです。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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