寧々(北政所)はなぜ茶々の側室入りを認めたのか|お家のため?秀吉のため? 正室の務めと妻の本音 ─ 『豊臣兄弟!』第39回 浜辺美波が演じる寧々

秋の夜、奥御殿の縁側で月を見上げる打掛姿の正室(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました
  • 幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死しました。そのため、他家の養子になっていた三男の昌幸が真田家を継ぐことになります
  • 昌幸は武田家の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉と主を替えながら領地を守り、天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍を退けました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と真田の和睦」を命じるのは、この直後の出来事です
  • 関ヶ原の戦いでは、兄の信之が徳川方、父の昌幸と弟の信繁が豊臣方に分かれました。信之の家は松代藩主として幕末まで続き、信繁は大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる最期を遂げます

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀長が秀吉に「茶々を妻に」と勧め、秀吉は「寧々がどれほど傷つくか」と怒りました。ところが寧々(浜辺美波)は、「お家のため、殿下のためなら、わたしは認める」と受け入れます。正室として夫に側室を迎えることを認める ─ 現代の感覚では考えにくい決断ですが、寧々はなぜそれを受け入れたのでしょうか。お家のためか、秀吉のためか。寧々の側に立って考えてみます。

城の奥御殿で過ごす女性たちのイメージイラスト
城の奥御殿で過ごす女性たちのイメージ(イラスト)。北政所となった寧々は、大坂城の奥を取りしきる立場にありました
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寧々とはどんな女性だったのか

寧々は尾張の杉原定利の娘で、叔母の嫁ぎ先・浅野長勝の養女として育ちました。永禄4年(1561)ごろ、まだ身分の低かった木下藤吉郎(秀吉)に嫁ぎます。当時としてはめずらしい恋愛による結婚だったとも伝わります。二人のあいだに子は生まれませんでしたが、寧々は加藤清正や福島正則など、秀吉に仕える少年たちを育て、秀吉が長浜城主になると城の留守を預かるなど、夫の出世を支えました。天正13年(1585)、秀吉が関白になると、寧々は関白の正室をあらわす「北政所」と呼ばれるようになります。くわしくは浜辺美波が演じる寧々(ねね・北政所)とはをどうぞ。

「北政所」「大政所」という呼び名の意味は、北政所・大政所とは ─ 読み方と意味のちがいで解説しています。

理由① ─ 正室の務めは「家を続ける」こと

戦国時代の武家にとって、何より大切なのは家を次の代へつなぐことでした。そのため、当主が正室のほかに側室を持ち、跡継ぎを得ることは当たり前とされていました。正室は家の奥(当主の家族や女房たちの暮らす場)を取りしきる立場で、側室たちもその下に置かれます。側室を迎えることは、正室にとって「夫を奪われる」ことである以上に、「家の跡継ぎを確保する」という自分の務めの一部でもあったのです。

秀吉はすでに五十歳に近く、実の子はいませんでした。養子の於次秀勝は病に倒れ、甥の秀次はいても、秀吉自身の子ではありません。関白の家となった豊臣家を続けるために、秀吉の実子を望む声が出るのは自然なことでした。正室の寧々がそれを拒めば、家の行く末を危うくすることにもなります。ドラマの寧々が「お家のため」と言ったのは、この正室の務めを踏まえた言葉です。

理由② ─ 側室の子は「正室の子」として育つ

当時は、側室が産んだ子でも、正室が「母」として育て、家の跡継ぎとして立てるのが一般的でした。正室は、側室の子にとって「嫡母(ちゃくぼ)」という立場になります。子のない寧々にとって、茶々が子を産むことは、自分が豊臣家の跡取りの母となる道でもありました。

実際に寧々は、茶々の産んだ鶴松や秀頼を豊臣家の跡取りとして大切にしたとされます。秀吉が亡くなったあとも、寧々は秀頼の行く末を気にかけていたと伝わります。寧々にとって茶々の子は、敵の子ではなく「豊臣家の子」だったのです。秀吉の子どもたちについては秀吉に実子はいたのか ─ 石松丸・鶴松・秀頼で解説しています。

▽ よく語られる話
子のない寧々は、若く美しい茶々に秀吉の寵愛を奪われて嫉妬し、二人は豊臣家の中で激しく対立した。
▼ 史実ではこうです
寧々と茶々が対立したことを示す確かな史料は乏しく、近年の研究では見直されています。寧々は秀吉の正室として、関白の妻「北政所」として、豊臣家の奥と大名の妻子たちを取りしきる立場にありました。側室を迎えることも、その子を跡取りとして立てることも、正室の務めの延長にあったと考えられます。

理由③ ─ 秀吉のため、そして「織田の血」

茶々は浅井長政とお市の方の娘で、織田信長の姪にあたります。秀吉は百姓の出で、系図を持たない天下人でした。その秀吉の子が織田の血を引けば、豊臣家の家柄にとっても大きな意味があります。ドラマで秀長が「羽柴・織田・浅井の血が入った子をつくる」と言ったのも、この点を突いたものです。

寧々は秀吉の出世を誰よりも近くで支えてきた妻でした。秀吉の天下を次の代へつなぐためなら、という思いが「殿下のためなら」という言葉に込められていると見ることができます。もっとも、史実の寧々がこの点をどう考えていたかを示す記録はありません。茶々がなぜ側室になったのかは茶々(淀殿)はなぜ仇・秀吉の側室になったのかで考えています。

それでも寧々は傷ついていた ─ 信長の手紙

寧々が、秀吉の女性関係に何も感じなかったわけではありません。秀吉が長浜城主だったころ、寧々が信長のもとへあいさつに行ったあと、信長から寧々に送られた手紙が残っています。そこで信長は、寧々の美しさをほめ、秀吉が寧々に不満を言うのはとんでもないことで、あれほどの妻はあの「はげねずみ」には二度と見つからない、だからやきもちはほどほどにして、正室らしく堂々としていなさい、と励ましています。寧々が夫の浮気に悩み、それを信長が気づかっていたことがうかがえる手紙です。

ドラマの寧々が「心の底では、殿下の妻にはならないと言ってくれることも、少しは思っていた」「正妻としてあってはならぬこと。でも家を守ること」ともらしたのは、この「正室としての務め」と「妻としての思い」のあいだで揺れる寧々の姿を描いたものでしょう。

大阪城
大阪城。北政所となった寧々は、秀吉の大坂城で奥を取りしきり、諸大名の妻子とも向き合いました

寧々と茶々のその後

茶々は天正17年(1589)に鶴松を産みますが、鶴松は3歳で亡くなります。文禄2年(1593)には秀頼が生まれ、秀吉の死後は大坂城で秀頼の母として豊臣家を支えました。寧々は秀吉の死の翌年、大坂城の西の丸を出て京都に移り、のちに出家して高台院と名のり、京都・東山に高台寺を建てて秀吉を弔いました。

関ヶ原の戦いで寧々が徳川方を、茶々が石田三成方を後押ししたという話はよく知られていますが、近年の研究では見直されています。二人はそれぞれの場所で豊臣家を支えようとした、と考えられるようになっています。第39回で寧々が茶々に「これからはともにこの家を支えておくれ」と言ったのは、まさにこの見方に立った描き方です。弓の勝負の場面は寧々と茶々の弓の勝負は実話?で解説しています。

よくある疑問

Q. 寧々はなぜ茶々の側室入りを認めたのですか?
A. 寧々自身の言葉は残っていません。家の跡継ぎを確保するという正室の務め、側室の子も正室の子として育てる当時のならい、秀吉の天下を次につなぐことなどが理由として考えられます。

Q. 寧々と秀吉に子はいなかったのですか?
A. いませんでした。寧々は加藤清正や福島正則など、秀吉に仕える少年たちを育てました。

Q. 寧々は茶々に嫉妬していたのですか?
A. それを示す確かな史料は乏しく、二人の対立という見方は近年見直されています。

Q. 信長が寧々に送った手紙とは?
A. 秀吉の女性関係に悩む寧々を、信長が励ました手紙です。秀吉を「はげねずみ」と呼んだことで知られます。

まとめ

寧々がなぜ茶々の側室入りを認めたのか、本人の言葉は残っていません。けれども、家の跡継ぎを確保するという正室の務め、側室の子も正室の子として育てる当時のならい、そして秀吉の天下を次の代へつなぐという思いを考えると、寧々が受け入れた理由は見えてきます。一方で、若いころに夫の浮気に悩んだ寧々が、何も感じなかったとは思えません。『豊臣兄弟!』第39回の「お家のため、殿下のためなら」と「少しは思っていた」という二つの言葉は、正室としての寧々と、妻としての寧々の両方を描いたものでした。

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