興福寺と東大寺は本当に「悪」だったのか:『豊臣兄弟!』の寺社と史実 ─ 寺領の村の年貢、領主への負担、お布施のしくみ

東大寺の南大門と「大華厳寺」の額
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第37回では、興福寺の坊官・磐覚(坂口涼太郎)が年貢を寺に集める仕組みを守ろうとし、寺社は秀長の改革を阻む側として描かれました
  • 寺領の村の農民が年貢を納める先は、原則としてその土地の領主である寺でした。大和には武家の守護がいなかったので、寺とは別の「領主」に同じ年貢を二重に納めるわけではありません
  • ただし年貢は何段にも分かれて吸い上げられ、寺の取り分の上に、現地を預かる武士や村の有力者の取り分が重なっていました。農民の負担が重かったのは、寺ひとつのせいではなく、この重なりのせいでもあります
  • 戦国時代には檀家制度はまだなく、お布施は義務ではありませんでした。寺は年貢で法会や学問、建物を支えていた一方、武力や呪いで村を縛る顔も持っていました。善悪の一言では割り切れない姿を見ていきます

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の大和編では、興福寺の坊官・磐覚が「大和のまことの主が誰かは百姓が知っている」と言い放ち、年貢を寺に集める仕組みを手放そうとしませんでした。秀長は検地で年貢を改め、寺社の特権を崩していきます。ドラマを見て、寺社はそれほど悪かったのか、と感じた人も多いのではないでしょうか。この記事では、寺領の村の年貢はどこへ行ったのか、農民は寺と領主の両方に納めていたのか、お布施は義務だったのか、という素朴な疑問から、興福寺と東大寺の実像を考えてみます。

興福寺の中金堂
大和の国の主だった興福寺。写真は再建された中金堂
目次

寺領の村の農民は、だれに年貢を納めたのか

中世の日本の土地は、多くが「荘園」として、貴族や寺社などの領主に属していました。荘園の村の農民は、その荘園の領主に年貢を納めます。寺の荘園なら納める先は寺で、寺が領主そのものでした。大和では鎌倉時代の半ばから武家の守護が置かれず、最大の荘園領主である興福寺が、年貢を集め、罪を裁き、武士を組織する、事実上の国の主として振る舞ってきました。その仕組みは興福寺の別当とはでくわしく書いています。

ですから、寺領の農民が寺に年貢を納めたうえで、さらに別の領主にも同じ年貢を納める、という二重払いが当たり前だったわけではありません。大和では寺が領主の役割を担っていたので、寺に納めることが、そのまま領主に納めることでした。ドラマで磐覚が「年貢は寺に集まる」と言うのは、寺が悪だくみで横取りしていたのではなく、もともとそういう仕組みの国だったということです。

▽ よく語られる話
寺は、本来なら領主に納めるはずの年貢を横から奪い、農民を苦しめていた。
▼ 史実ではこうです
大和では興福寺そのものが荘園の領主で、年貢を寺に納めるのは当時の正規の仕組みでした。寺が「奪った」のではなく、寺が「領主だった」のです。秀長が変えたのは、その領主の座を寺から武家へ移すことでした。

それでも農民の負担が重かったのはなぜか

二重払いではないとしても、農民の暮らしが楽だったわけではありません。荘園の年貢は、村から寺へまっすぐ届くのではなく、現地で荘園を預かる役人や、寺に属する武士の「衆徒」、春日社に仕える「国民」、村の有力者などが、それぞれ取り分を抜きながら上へ送る仕組みでした。年貢のほかに、労働で納める「夫役」や、地域の産物で納める「公事」もかかります。戦国時代になると、衆徒や国民が力をつけて寺の荘園を事実上わがものにし、寺に届く年貢はかえって減っていきました。室町時代の後半に興福寺大乗院の門跡・尋尊が書いた日記『大乗院寺社雑事記』には、荘園の年貢が届かない「未進」や、現地の武士が年貢を横取りする「押領」への嘆きが繰り返し記されています。途中で取り分を抜く層が厚くなるほど、村の負担は重くなり、寺の取り分は細っていくという、どちらにとっても苦しい構造だったのです。

つまり農民の負担を重くしていたのは、寺という一つの存在よりも、何段にも重なった取り分の層でした。寺の側も、年貢がきちんと届かずに苦しんでいたのです。この層の重なりが大和を貧しくしていた事情は大和はなぜ貧しい国だったのかで、寺に属した武士たちについては衆徒とは何者かで扱っています。

寺領でない村は、寺にお布施をしていたのか

では、寺の荘園ではない村の農民は、年貢とは別に寺へお布施や寄付を納めなければならなかったのでしょうか。結論から言うと、戦国時代の段階では、お布施は義務ではありませんでした。家ごとに決まった寺に属し、葬儀や法事を任せてお布施を納める「檀家」の仕組みが全国に広がるのは、江戸幕府がキリシタン対策として寺請制度を整えた十七世紀のことです。それより前の村人と寺のつながりは、法会への参詣や祈願、病気平癒のお参りなど、もっとゆるやかなものでした。

ただし、大和では寺と神社が国全体の行事を担っていたため、寺領かどうかに関係なく負担がかかる場面もありました。たとえば春日社の祭礼は大和の武士たちが費用を出して営み、寺の建て直しなどの大事業では、国じゅうに臨時の税をかけたり、広く寄付を募ったりすることもありました。寄付を集めることを「勧進」といい、焼けた東大寺の大仏殿の再建なども、こうした呼びかけで進められました。強制の年貢とは違いますが、信仰と結びついた負担は、村の暮らしに確かに入りこんでいたのです。

▽ よく語られる話
戦国時代の農民は、年貢とは別に寺へのお布施を強制されていた。
▼ 史実ではこうです
檀家としてお布施を納める仕組みが広がるのは江戸時代からで、戦国期のお布施は義務ではありませんでした。ただ大和では、寺領の年貢そのものが「神仏への供え物」と受け止められ、減らすことが罰当たりに思われていました。

寺は集めた年貢を何に使っていたのか

寺が集めた年貢は、寺の主のぜいたくに消えていたわけではありません。興福寺は法相宗の学問の寺で、多くの僧が経典を学び、毎年の法会を営んでいました。広い伽藍の修理、灯明の油、春日社の祭りの費用も年貢でまかなわれていました。奈良の墨が、寺の灯明のすすから生まれたと伝わるように、寺の営みは奈良の町の産業とも結びついていました(奈良墨とは)。さかのぼれば奈良時代には、光明皇后が興福寺に病人や貧しい人を救う施薬院と悲田院を設けたと伝わり、寺が人々を救う場であったことも忘れてはいけません。

それでも寺が「悪」と見られた理由

一方で、寺が恐れられ、ときに憎まれた理由もはっきりあります。興福寺は意に沿わないことがあると、春日社の神木を担いで都へ押しかける「強訴」で朝廷さえ動かしました。寺に逆らった者の名を書いて神前に籠める「名を籠める」という呪いもあり、村人は仏罰を本気で恐れていました。寺に属する衆徒は武装し、大和の中で合戦を繰り返しました。村を守るはずの領主が、武力と信仰の両方で村を縛っていた面は否定できません。こうした寺の力は石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのかでくわしく書いています。

ドラマの磐覚は、この「縛る側」の寺を一人に集めた人物と言えます。ただし磐覚という人物は史料に見えず、創作と考えられます(坂口涼太郎が演じる磐覚とは)。坊官という役職の実際は坊官とはで紹介しています。

東大寺はどうだったのか

東大寺はかつて全国に荘園を持つ大寺院でしたが、戦国時代の大和では興福寺ほどの力はなく、遠国の荘園の多くも失っていました。そのうえ永禄10年(1567)には、松永久秀と三好三人衆の戦いのなかで大仏殿が焼け落ち、大仏はその後長く雨ざらしになります。この時期の東大寺は、年貢を取り立てて村を苦しめる側というより、戦乱に巻き込まれて伽藍を失った側でした。大仏殿の焼失は東大寺と松永久秀は仏罰を恐れなかったのかで扱っています。

東大寺の大仏
戦国時代に大仏殿を焼かれ、長く雨ざらしになった東大寺の大仏

秀長がしたことは「悪を倒した」ことではない

秀長は大和に入ると、寺社に武器を差し出させ、土地を申告させ、興福寺の寺領を大きく削りました。それまで寺が自分で取っていた年貢は、国主が集めて寺へ「寄進」する形に改められます。これは寺を悪として裁いたのではなく、寺が担っていた「領主」の役目を武家の国主の手に移し、何段にも重なった取り分の層を畳んだ、ということです。寺は焼かれず、追われず、規模を縮めて存続しました。経緯は秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかにまとめています。

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興福寺の別当とは:大和を治めた寺のトップと、秀長が変えた年貢の集め方

寺が「取る側」から「受け取る側」へ。寄進という言葉で包んだ改革の中身。

よくある疑問

Q. 寺領の農民は、領主にも年貢を納めていたのですか?
A. 大和では寺そのものが荘園の領主だったため、寺に納めることがそのまま領主に納めることでした。ただし現地の武士や村の有力者が取り分を抜く層があり、実際の負担はその分重くなっていました。

Q. 寺領でない村の農民も、寺にお布施を納める義務がありましたか?
A. 戦国時代にはお布施の義務はありません。檀家としてお布施を納める仕組みが広がるのは江戸時代です。ただ祭礼や寺の再建などで、寄付や臨時の負担が求められることはありました。

Q. 興福寺は秀長の時代のあとどうなりましたか?
A. 寺領は大きく減りましたが、寺は存続し、江戸時代にも幕府から寺領を認められました。明治の神仏分離で大きな打撃を受けたのち、現在に至っています。

Q. ドラマの磐覚は実在の人物ですか?
A. 史料に名前は見えず、創作と考えられます。坂口涼太郎さんが演じています。

まとめ

興福寺や東大寺は、ドラマで描かれたような単純な悪ではありませんでした。大和では寺そのものが領主で、年貢を寺に納めるのは正規の仕組みでしたし、寺はその年貢で学問や法会、伽藍を支えていました。一方で、強訴や呪い、武装した衆徒で村を縛り、何段にも重なった取り分が農民の負担を重くしていたのも事実です。秀長がしたのは悪を倒すことではなく、寺が担ってきた領主の役目を武家に移し、年貢の流れを一本にすることでした。寺社の側から見れば、それは長く続いた「寺の国」の終わりでもあったのです。

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一乗院と坊官が明治にどうなったのかは、磐覚は今後も出てくるのかでたどっています。

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