吉良親貞(きら ちかさだ)は、長宗我部元親のすぐ下の弟です。土佐の名族・吉良氏の名跡を継ぎ、兄の命で土佐の西半分、公家大名の一条氏との戦いを任されました。一条氏を追って中村城に入り、土佐統一の西の柱となりましたが、天正四年(1576)、兄が四国へ打って出る直前に三十代半ばで世を去ります。跡を継いだ子の親実も、のちに元親の後継をめぐって命を落としました。
- 長宗我部国親の次男で、元親の二つ下の弟。天文十年(1541)生まれ
- 永禄六年(1563)ごろ、吉良氏の名跡を継ぎ「吉良親貞」と名のった
- 兄の軍代として土佐西部を担当し、一条氏の本拠・中村城に入った
- 天正四年(1576)に病死。伊予へ兵を進めていたさなかとする説もある
- 子の吉良親実は、元親の後継に四男盛親を立てることに反対し、天正十六年(1588)に命を落とした
元親の二つ下の弟
親貞は天文十年(1541)、土佐の岡豊城を本拠とする長宗我部国親の次男として生まれました。兄の元親は天文八年の生まれで、二つ違いです。下には香宗我部家を継いだ親泰、妾腹とされる島親益がいました(島親益とは)。兄弟の全体像は長宗我部兄弟とは何者かで紹介しています。
永禄三年(1560)の長浜の戦いは、元親の初陣として知られますが、親貞もこの戦いで兄と並んで初陣を果たしたと伝わります。「姫若子」と呼ばれた兄が「鬼若子」に変わった戦いで、弟もまた武将としての一歩を踏み出していました(元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか)。
吉良氏の名跡を継ぐ
吉良氏は、高知平野の西寄り、仁淀川の近くに根を張った土佐の名族です。戦国時代には本山氏に押されて力を失っていました。長宗我部が本山氏を押し返したのち、永禄六年(1563)ごろ、親貞は兄の命で吉良氏の娘を妻とし、その名跡を継いで「吉良親貞」と名のります。
屈服させた名族の家に弟を入れ、家ごと取り込む。これは長宗我部の拡大の型で、三弟の親泰も同じように香宗我部家を継いでいます(香宗我部親泰とは)。名字の違いについては長宗我部と香宗我部は何が違うのかも参考になります。
西を任された「軍代」
土佐の西には、京から下ってきた一条氏がいました。中村を本拠とする公家大名で、長宗我部にとっては家の恩人でもある相手です。正面から敵に回しにくいこの方面を、元親は親貞に任せました。兄の代わりに兵を率いる「軍代」として、親貞は土佐西部の攻略にあたります。
北の本山氏との長い戦いにも、親貞は兄とともに加わっていました。本山氏が降ったのは永禄十一年(1568)ごろです。本山・安芸・一条をどの順で片づけたのかは長宗我部元親はどうやって土佐を統一したのかで年表にしています。本山氏の城は本山城で紹介しています。

長宗我部の本拠・岡豊城跡。親貞はここで兄とともに育った
一条氏を追い、中村城へ
天正二年(1574)、一条家の当主・兼定が家臣たちに追われて豊後へ去ります。親貞は一条方の城を調略で切り崩し、中村に入りました。土佐の西の要、中村城の城代となったのです。
翌天正三年(1575)、兼定は豊後の大友氏の後押しを受けて土佐に戻り、旧臣を集めて巻き返しを図ります。四万十川(渡川)をはさんだこの戦いで、長宗我部は兼定の軍を退け、土佐一国をほぼ手中に収めました。西を預かっていた親貞にとって、守りきった戦いでもありました。

中村城跡からの眺め。親貞は一条氏の去ったこの地を預かった
天正四年、早すぎる死
土佐統一の翌年、天正四年(1576)、親貞は病で世を去ります。三十六歳でした。伊予へ兵を進めていたさなかに亡くなったとする記録もあり、没年を天正五年とする説もあります。
元親が四国へ本格的に打って出るのは、このあとです。阿波と讃岐は親泰が、伊予は元親自身が担うことになります。西の司令官を失ったことは、長宗我部の四国一統に小さくない穴を開けました。伊予で長宗我部と組んだ国人については金子元宅とはで紹介しています。
子・吉良親実の悲劇
親貞の跡は、子の親実が継ぎました。親実は元親の娘を妻にむかえ、一門の重鎮として遇されます。ところが天正十四年(1586)、戸次川の戦いで元親の嫡男・信親が討ち死にすると、家中は後継をめぐって割れました。
元親が四男の盛親を跡継ぎに選ぼうとしたとき、親実はこれに強く反対しました。年長の兄たちを差し置くのは筋が通らない、という意見です。天正十六年(1588)、親実は元親の命で命を絶つことになり、吉良の家は途絶えます。のちに元親は、親実の霊を木塚明神としてまつったと伝わります。長宗我部家のその後は長宗我部氏はどうなったのかにまとめています。
『豊臣兄弟!』に登場するのか
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で四国が描かれるのは、天正十三年(1585)の四国攻めです。親貞はその九年前に亡くなっているため、物語のなかで生きた姿が描かれる場面はまず考えにくいでしょう。ただ、元親の回想や、兄弟の歩みを語る場面で名前が出ることはありえます。四国攻めそのものは第36回「姫若子と鬼若子」史実解説と秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのかで解説しています。
よくある質問
Q. 吉良親貞は三河の吉良氏(吉良上野介)と関係がありますか。
A. 土佐の吉良氏は、源頼朝の弟・希義の子孫と称した家で、三河の吉良氏とは別の流れとされます。
Q. 親貞と親泰、どちらが上の弟ですか。
A. 親貞が次男、親泰が三男です。親貞が西、親泰が東と、二人で土佐の両側を受け持ちました(香宗我部親泰とは)。
Q. 親貞ゆかりの場所はどこですか。
A. 長宗我部の本拠岡豊城と、親貞が城代をつとめた中村城です。中村城跡には四万十市郷土博物館が建っています。
まとめ
吉良親貞は、兄・元親の二つ下の弟として生まれ、吉良氏の名跡を継いで土佐の西を任されました。一条氏の去った中村城を預かり、土佐統一を西から支えましたが、天正四年、兄が四国へ出る直前に病で世を去ります。子の親実も元親の後継問題で命を落とし、吉良の家は二代で絶えました。兄弟それぞれの役割は豊臣兄弟と長宗我部兄弟で、豊臣の兄弟と比べながら読めます。長宗我部の記事は長宗我部氏特集にまとめています。

