筒井定次はなぜ大和を出されたのか:秀長が入った国と、伊賀へ移された筒井の跡継ぎ

伊賀上野城の復興天守

第三十七回で、秀長は大和を与えられます。ではそれまで大和を治めていた家はどうなったのか。筒井定次です。順慶の跡を継いだばかりの若い当主は、天正十三年(1585年)、大和を出されて伊賀へ移されました。画面で見せた通り、うれしい話ではありません。ただし石高は減っていません。むしろ増えています。この国替えが何だったのかを、順を追って見ていきます。

この記事のポイント
  • 筒井定次は順慶の養子。実父は順国で、永禄五年の生まれです
  • 天正十三年、秀長が大和に入るのと引き換えに伊賀へ移されました
  • 伊賀十二万石に伊勢と山城を足して二十万石。移封前より二万石増えています
  • 秀吉は外様を畿内の外へ出し、身内と譜代を畿内に置く配置を進めていました
  • 慶長十三年に家臣の訴えで改易。慶長二十年、豊臣方への内通を疑われ自害します
目次

順慶の跡を継いだ養子

定次は永禄五年(1562年)、筒井順国の次男として生まれました。本家の筒井順慶に実子がなかったため、養子に迎えられます。当初は番条五郎という人物が候補でしたが辞退し、定次に回ってきました。

天正六年(1578年)には織田信長の娘を妻に迎えています。信長にとって大和の押さえは重要で、松永久秀が信貴山城で滅んだあと、その役を筒井に託した形です。順慶が本能寺のあとどちらにも動かなかったのも、この立場の重さゆえです。

▽ よく語られる話
山崎の戦いのとき、筒井順慶は洞ヶ峠に陣を敷いて、光秀と秀吉のどちらが勝つかを眺めていた。日和見の代名詞として語られます。
▼ 史実ではこうです
順慶が洞ヶ峠へ出て形勢をうかがったという確かな記録はありません。順慶は郡山城にとどまり、結局どちらにも加勢しませんでした。峠に出ていたのはむしろ光秀の側だったともいわれます。動かなかったという事実は残りますが、峠で眺めていたという場面そのものは後世につくられた絵です。

そもそも大和は、当主の一存で軍を動かせる国ではありませんでした。興福寺をはじめとする寺社が領地と兵を持ち、衆徒が各地に根を張っています。順慶が迷ったというより、迷わざるを得ない構造の上に立っていたとみるほうが実情に近いでしょう。

定次はその順慶の養子として家を継ぎました。実子ではない跡継ぎが、寺社の強い国をまとめる。国替えの前から、すでに難しい立場にあったことになります。

天正十二年(1584年)に順慶が没し、定次が跡を継ぎます。二十三歳。大和を任された若い当主でしたが、その一年後に国ごと動かされることになります。

天正十三年、大和から伊賀へ

天正十三年の大規模な国替えで、羽柴秀長が大和へ入ることが決まりました。秀長に大和百万石を与えるには、先にそこにいる家を動かさなければなりません。定次は伊賀上野へ移されます。

▶ 60秒でわかる動画

阿波一国を断った男と、大和を出された筒井|秀吉の論功行賞の本当の狙い

▽ よく語られる話
筒井は大和を取り上げられ、伊賀へ左遷された。
▼ 史実ではこうです
石高で見ると減っていません。移封前の所領はおよそ十八万石、移封後は伊賀一国十二万石に伊勢国内五万石、山城国内三万石を加えた二十万石で、二万石の加増です。しかも伊賀は東国への備えとして重んじられた土地でした。処罰ではなく、配置換えと見るほうが実態に近いでしょう。それでも、代々の本拠を離れるのが当人にとって痛手だったことは別の話です。

定次はこのとき秀吉から羽柴の姓を許され、従五位下伊賀守に任じられています。のちには豊臣姓も下されました。冷遇されていたわけではありません。

外様を畿内の外へ、身内を畿内に

この年の国替えを並べると、秀吉が何をしようとしていたかが見えてきます。大和には弟の秀長。四国を平定したあとの阿波には蜂須賀。播磨の明石には高山右近。そして大和にいた筒井は伊賀へ。

畿内とその周りを、身内と古くからの家臣で固める。もとからその土地にいた家は、外側へ動かす。関白になった秀吉が最初に手をつけたのが、この配置の組み替えでした。第三十七回で描かれた論功行賞は、褒美を配る場であると同時に、日本列島の人の配置図を書き替える作業でもあったわけです。

大和という国は、守護が置かれず寺社が力を持ち続けた特殊な国でした。そこを兄弟のうちの一人に任せるという判断には、筒井のような在地の家では抑えきれないという読みもあったはずです。

島左近が去った年

伊賀へ移った翌年の天正十四年(1586年)、筒井家で灌漑用水をめぐる裁定がありました。この裁きに不満を持った家臣が家を去ります。島左近です。のちに石田三成に仕え、関ヶ原の笹尾山で戦うことになる人物でした。

大和を離れたことで、在地に根を張っていた家臣たちとの関係は変わります。土地から切り離された国衆は、忠誠の理由を失いやすい。定次のつまずきは、この時期から始まっていたのかもしれません。

伊賀上野城を築いたのは誰か

いまの伊賀上野城は、高い石垣で知られます。あれを築いたのは藤堂高虎で、定次ではありません。

ただし最初にこの地に城を構えたのは定次です。移封にともなって城と城下を整え、伊賀支配の拠点としました。定次の城は現在の本丸の東側にあたり、高虎はそれを取り込んで西へ大きく拡張しています。城跡を歩くと、二つの時代の縄張りが重なっているのが分かります。

皮肉なことに、高虎はもともと秀長に仕えた武将でした。大和郡山で秀長のもとで働いた男が、のちに定次の城を作り替えることになります。

改易、そして最期

関ヶ原では東軍につきました。会津へ向かって城を空けたすきに伊賀上野城は西軍に奪われますが、引き返して奪回し、戦後は所領を安堵されます。慶長八年には伊賀一国を治める国持大名となりました。

ところが慶長十三年(1608年)、重臣の中坊秀祐が定次の悪政や不行状を幕府に訴え、定次は改易されます。名護屋に在陣中に酒色に溺れたという記録も残っており、当人の素行に問題があったのは確かなようです。

ただ、理由はそれだけではないでしょう。定次は豊臣恩顧の大名で、大坂への年賀でも態度をはっきりさせませんでした。そして伊賀は大坂と東国のあいだに横たわる要衝です。家康にとって、ここを豊臣寄りの大名に任せておく理由はありませんでした。改易のあと、伊賀に入ったのが藤堂高虎です。

慶長二十年(1615年)三月、大坂冬の陣で豊臣方に内通したとして、定次は嫡男の順定とともに自害を命じられました。享年五十四。大和の名門・筒井家は、こうして幕を下ろします。秀長が大和に入ったあの年から、ちょうど三十年後のことでした。

筒井家が去ったあとの大和が、どんな国として再編されていったのかは大和の戦国時代とはにまとめています。

まとめ

筒井定次の国替えは、処罰ではありませんでした。石高は増えていますし、姓も官位も与えられています。それでも、代々の土地を離れるということが何を意味するのかは、その後の三十年が示しています。

秀長が大和で寺社と向き合っているあいだ、伊賀では筒井が別の苦労をしていました。秀長の大和支配を読むときは、その裏側でこの家が動かされたことも一緒に思い出してみてください。大和郡山城の石垣は、筒井順慶が積みはじめたものです。

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