日向高岡城(ひゅうがたかおかじょう)は、島津氏が日向と薩摩の境目を固めるために築いた城です。天ヶ城とも呼ばれ、大淀川を見おろす台地の先端にありました。関ヶ原の戦いのあと、国境の警備を強めるために築かれたと伝わります。今は天ヶ城公園として整備され、白い天守のような建物が建っていますが、これは後世に建てられたもので、当時の高岡城に天守はありませんでした。
- 島津氏が日向側の国境を固めるために築いた境目の城
- 公園に建つ天守風の建物は後世の模擬天守で、資料館として使われている
- 城そのものは土塁と空堀による構えで、天守や高石垣は持たなかった
- 一国一城令ののちも薩摩藩の外城(麓)として役所と郷士の集落が置かれた

広場の奥に白壁の塀と門が並び、その向こうに天守を模した建物が見える。手前は芝生の広場で、当時の曲輪にあたる平場。
あの天守は何なのか
模擬天守という言葉は、史料にない姿で建てられた天守を指します。同じ性格の建物は各地にあり、その土地が城跡であることを知らせる役目を果たしてきました。高岡でも、公園に登れば町と大淀川が一望できます。建物の由来を知ったうえで景色を見ると、この城が何を見張る場所だったかがよくわかります。
なぜ国境に城が必要だったのか
慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いで西軍が崩れたとき、島津義弘は敵中を突っ切って戦場を離れました。世に言う島津の退き口です。伊勢から海路をとって九州へ帰りますが、日向に上陸したのちも安全ではありませんでした。かつてこの地を治めていた伊東氏の旧臣たちが、旧領の回復をねらって動いていたからです。
日向は、もともと伊東氏の勢力圏でした。高鍋城や飫肥をふくむ一帯を押さえていた伊東義祐は、島津氏に敗れて豊後へ逃れます。その後の九州平定で伊東祐兵が飫肥城に復帰し、日向の南部には伊東領が復活しました。島津氏から見れば、国境のすぐ向こうに旧敵が戻ってきた形です。
高岡の地は、大淀川ぞいに宮崎平野から薩摩へ抜ける道の要にあたります。ここを固めれば、平野側からの侵入を大淀川と台地でせき止められます。境目の城とは、そういう場所に置かれるものでした。初代の城代には比志島国貞が入り、国境の守りを担いました。

石段の上から門を見おろす。台地の上と下をつなぐ道はここ一本で、登り口の狭さが城跡らしい部分。
土と地形でつくられた城
高岡城は、大淀川に向かって突き出した台地の先端を利用した城です。川に面した側は急な崖で、反対側は空堀で切り離す。その内側に曲輪を並べる—南九州の城に共通するつくり方です。シラス台地の土は掘れば垂直に近い壁を保つため、石を積まなくても十分に防御になります。
島津氏の城が石垣を多用しなかったのは、技術がなかったからではなく、この土でそれが要らなかったからです。同じ発想は、島津氏歴代の居城だった内城や、鹿児島の鶴丸城にも見られます。天守を建てず、堀と土塁と地形で守る。高岡城もその系列にあります。
廃城のあとも、町は役所であり続けた
一国一城令によって、高岡城は城としての役目を終えます。ただし、この土地が空になったわけではありません。薩摩藩は領内を百あまりの郷に分け、それぞれに地頭仮屋と郷士の集落を置く外城の仕組みをとっていました。高岡もその一つで、地頭仮屋が置かれ、麓と呼ばれる郷士の町が城跡の下に広がります。
つまり、城は廃されても、軍事と行政の拠点としての性格は形を変えて続きました。国境に人を張りつけておくという考え方が、城から町へ引き継がれたことになります。高岡の町に今も残る生垣と石垣の区画、まっすぐな通りは、この麓の町割りに由来します。城跡だけを見て帰ると、この城のいちばん長い時代を見のがすことになります。

植込みの斜面ごしに建物を見上げる。台地のへりに立っているため、下の道からは思いのほか高く見える。
天ヶ城公園の訪ね方
城跡は天ヶ城公園として整備され、模擬天守のなかは高岡町の歴史民俗資料館になっています。台地の上は桜の名所でもあり、春には花見客が集まります。宮崎市の中心部からは車で三十分ほど、大淀川にそって西へ向かう道が、そのまま当時の街道の方向にあたります。
あわせて歩きたいのは、麓の町並みです。高岡には島津の郷として整えられた通りが残り、近くには月知梅の名で知られる梅林もあります。日向の城をめぐるなら、飫肥城や綾城と結ぶと、伊東氏と島津氏がせめぎ合った国境の形が見えてきます。
所在地:〒880-2321 宮崎県宮崎市高岡町内山3003

