綾城(あやじょう)は、日向の山あいにあった山城です。足利尊氏の家臣・細川義門が築いたと伝えられ、戦国期には綾氏が拠り、のちに伊東氏の支配下に入りました。天正五年(一五七七)、島津氏の攻勢で伊東氏が日向を追われると、綾城もその運命をともにします。今は城跡に黒い板張りの建物が建ち、木立の上から姿をのぞかせています。
- 綾北川と綾南川にはさまれた台地の先に築かれた山城
- 伊東氏の四十八城の一つに数えられ、綾氏が城主をつとめた
- 建つ建物は戦国初期の城楼を想定して建てられたもので、天守の復元ではない
- 伊東崩れののちは島津氏の支城となり、一国一城令で廃された

太い門柱と木柵の向こうに建物が立つ。板張りの黒い壁に、上へ望楼を載せた形。石垣は建物の足もとだけに積まれている。
城跡に建つのは何か
この建物は、戦国時代の初めごろの城楼を想定して建てられたものです。綾城に天守があったという記録はなく、発掘によって建物の姿が明らかになったわけでもありません。木造で組み、板を張り、瓦を最小限にとどめた姿は、石垣と白壁の近世城郭とは別の系統の建築です。
そのため「復元天守」ではありませんが、南九州の山城がどんな構えだったかを考えるきっかけにはなります。島津氏や日向の国衆の城は、土を削り、堀で曲輪を切り、木の柵と櫓で守るものでした。石を高く積む城が当たり前だと思って訪ねると、この素朴さに驚かされます。
川にはさまれた台地の城
綾の地は、綾北川と綾南川が合流するあたりに開けています。城が置かれたのは、その川に削られて残った台地の先端です。三方が崖で、残る一方を堀で断ち切れば城になる—南九州でくり返し使われた地形の使い方です。
綾から山へ入れば、九州山地の深い森が広がります。この照葉樹の森は今も残り、綾の町を代表する景色になっています。中世の綾氏にとっては、この山と川が領地の境であり、守りの線でもありました。
伊東四十八城のひとつとして

木々の上に屋根と望楼だけがのぞく。台地の先端に建っているため、麓の道からはこの形で見える。
戦国期の日向では、伊東氏が勢力を広げました。都於郡と佐土原を本拠として一族や国衆に城を預け、その数から伊東四十八城と呼ばれます。綾城もその一つに数えられ、城主の綾氏は伊東氏に従いました。高鍋城や飫肥城も、この時期は伊東方の城です。
綾氏は最後まで伊東方にとどまったと伝わります。ただ、そのときにはすでに周囲の城が島津方に変わっており、孤立した城が長く持ちこたえられる状況ではありませんでした。城は落ち、綾氏は滅びます。
島津の支城となり、そして廃城へ
日向を押さえた島津氏は、綾城を支城として維持しました。豊臣秀吉の九州平定で島津氏が薩摩・大隅と日向の一部に押し戻されたのちも、綾は島津領にとどまります。日向高岡城が国境の守りとして築かれたのは、この線引きのあとのことです。
やがて一国一城令により、綾城は廃されました。以後の綾は、島津領内の郷として役所と郷士の集落が置かれ、農と林業の地として続きます。城のない時代のほうが、はるかに長い町です。

離れた場所から見ると、深い緑の丘の上に建物だけが浮かんで見える。城が台地の先端に置かれていたことがわかる眺め。
綾城跡の訪ね方
城跡は綾町の中心に近く、宮崎市内から車で四十分ほどです。建物の内部は資料の展示にあてられ、上の階からは綾の町と山並みが見わたせます。まわりは公園として整えられ、台地の縁を歩くと、崖の落ち方が城の守りそのものだったことがわかります。
綾町は照葉樹林の町としても知られ、吊橋から森を見わたせます。城跡と森、そして酒蔵や工芸の工房をあわせて一日歩ける町です。日向の城をめぐるなら、日向高岡城や飫肥城と結ぶと、伊東氏と島津氏がせめぎ合った国境の形が見えてきます。
所在地:〒880-1302 宮崎県東諸県郡綾町北俣1012

