加納城(かのうじょう)は、関ヶ原の戦いの翌年、徳川家康の命で築かれた美濃の平城です。山上の岐阜城が廃され、その資材が運び下ろされて使われました。最初に城主となったのは家康の娘婿・奥平信昌です。本丸には天守台が築かれながら、天守は建てられませんでした。城跡は加納公園として残り、石垣と土塁が今も見られます。
- 岐阜城の破却にともない、その資材を使って築かれた平城
- 山城から平城へ、軍事拠点から街道を押さえる城へと性格が変わった
- 本丸に天守台はあるが天守は建てられず、櫓が城の象徴だった
- 奥平信昌のあと大久保・戸田・安藤・永井と城主が替わり明治を迎えた

冬の加納公園。土の高まりの上に石垣が積まれ、その手前が本丸の平場になっている。低く長い石垣が城域の輪郭を示している。
加納公園に残るもの
加納城跡でまず目に入るのは、本丸をかこむ石垣です。高く積み上げた近世城郭の石垣というより、土塁の上に石を並べて表面を固めた低い石垣で、これが長く続きます。本丸の内側は広い平場になっていて、御殿が建っていた場所です。
この城は、山城のように高さで守る城ではありません。荒田川と長良川の流れ、そして周囲の低湿地を堀として使い、平面の広がりで守る城でした。石垣が低いのは手を抜いたからではなく、水と地形が主役の城だからです。

本丸跡は公園の広場になっている。建物はなく、木立と案内板が立つばかりで、御殿の跡は地表からはたどれない。
岐阜城を壊して築かれた城
関ヶ原の前哨戦で、岐阜城には織田信長の孫・秀信が拠っていました。西軍についた秀信は東軍の攻撃を受けて降伏し、高野山へ送られます。この一戦で美濃の情勢が決まり、家康は本戦を有利に運びました。美濃は京と東国を結ぶ通り道で、豊かな平野でもあります。家康はここに大大名を置かず、小さな藩を並べて分け合わせました。加納城はその布石の一つです。
奥平信昌と亀姫
最初の城主となった奥平信昌は、三河の国衆の出身です。武田と徳川のあいだで去就を変えた家でしたが、長篠の戦いのとき長篠城に籠もり、武田勝頼の大軍を五百ほどの兵で支えました。この功で家康の長女・亀姫を妻に迎えています。加納の地を与えられたのは、その二十五年あまりのちのことです。
亀姫は加納御前と呼ばれ、城下でも存在感のある人でした。信昌の死後も加納にとどまり、子や孫の代の家の動きに関わったと伝わります。城主の家が替わっても、加納の町では長く語られた名前です。
天守台はあるのに天守がない
加納城の本丸には天守台が築かれています。ところが、そこに天守が建てられた記録はありません。城の象徴とされたのは二の丸に置かれた櫓で、天守台は石だけが残る形になりました。
この時期、幕府は諸大名の城に対して厳しくなっていきます。譜代の小藩に高い天守は要らないという判断もあったでしょうし、平地の城では高い建物が防御の役に立ちにくいという事情もあります。同じ美濃の大垣城が天守を備えたのとは対照的で、加納城は最初から「見せる城」ではなく「治める城」として設計されたように見えます。

春の加納城跡。石垣の上に桜が枝を広げ、松の緑と並ぶ。手前の広い平場は、かつて堀と水がめぐっていた側。
城主の交代と、中山道加納宿
奥平家のあと、加納城は大久保家、戸田家、安藤家と城主を替え、最後は永井家が明治維新を迎えました。石高はおおむね三万石前後で、大藩ではありません。しかし城下は中山道の加納宿として栄え、和傘の産地としても知られました。城と宿場が一体になった町で、今の岐阜市の南半分は、この加納の町割りを土台にしています。
明治に入って建物は取り払われ、跡地は陸軍が使いました。今も本丸の石垣が長く残っているのは、この用地として囲われていた時期があったからです。
加納城跡の訪ね方
加納城跡は岐阜駅の南、歩いて十五分ほどの住宅地のなかにあります。本丸跡が加納公園として開かれ、石垣にそって一周できます。門や櫓はありませんが、石垣の長さと平場の広さから、城の規模はつかめます。案内板を読みながら角の折れをたどると、堀のあった線が見えてきます。
駅をはさんで北へ向かえば、金華山の岐阜城があります。加納城の石垣を見てから山上の城に登ると、家康がこの二つの城に何をさせようとしたのかが、地形の違いのままに理解できます。中山道の加納宿の町並みや、和傘の工房もあわせて歩けます。
所在地:〒500-8485 岐阜県岐阜市加納丸之内
加納藩/永井家3万2千石:永井尚服 戊辰戦争では東山道鎮撫総督府軍「岩倉具定」に帰順した加納藩
加納城の地を治めた加納藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
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