【館林城とは】
館林城は、上野国邑楽郡の低湿地帯に築かれた平城である。別名を尾曳城という。天守や高石垣はない。この城の要害は、城のすぐ北に広がる城沼そのものだった。
戦国期は赤井・長尾・後北条と支配が移り、江戸期には榊原康政や徳川綱吉といった譜代・親藩の居城となる。将軍を出した城でもある。館林市指定史跡(昭和48年4月1日)、日本遺産「里沼」構成文化財(令和元年5月20日)。

「史跡 館林城跡」の石碑。現在の館林市中心部一帯が城域だった(群馬県館林市城町)
【沼が、城だった】
現地の案内板は、この城の性格を的確に説明している。館林城は館林・邑楽地方の代表的地形である台地と低湿地を巧みに利用した平城である、と。
近世初代城主の榊原康政は、沼に突き出した舌状台地を区画して本丸・二の丸・三の丸・南郭・八幡郭を置き、稲荷郭・外郭・武家屋敷などを内郭とし、城下町を配して、全体を堀と土塁で囲んだ。
つまり堀を掘ったのではなく、沼をそのまま城の一部にしたのである。北は水、南と西は堀と土塁。臼井城が印旛沼を、真壁城が周囲の湿地を守りに使ったのと同じ発想が、ここでは最も徹底した形で現れている。

復元された三の丸土橋門。土塁と一体となって城跡の面影を伝える
その城沼は、令和元年に日本遺産「里沼」の構成要素となった。館林には三つの沼があり、多々良沼が「祈りの沼」、茂林寺沼が「実りの沼」、そして城沼が「守りの沼」と位置づけられている。城の防御施設が、そのまま地域の文化遺産として認定された例である。

日本遺産「里沼」の案内板。城沼は「守りの沼」として位置づけられている
なお、この城には狐が尾を曳いて縄張りを示したという築城伝説があり、尾曳という別名と、城内に祀られた尾曳稲荷の由来になっている。案内板が記すとおり戦国期の築城時期や築城者を明確にする記録はないのだが、伝説だけがはっきり残っているのは、いかにもこの土地らしい。
【赤井から長尾、そして北条へ】
戦国期の館林は、支配者が目まぐるしく替わった土地である。案内板が挙げるのは赤井氏、長尾氏、北条氏という順序で、この三つの名前だけで上野南東部の力学がおおよそ分かる。
赤井氏は在地の領主。長尾氏は関東管領・上杉氏の流れをくむ有力被官で、越後の上杉謙信が関東へ出てくるたびに旗色を変えた。そして小田原の後北条氏が北上して、最終的にこの地を押さえる。
館林は利根川と渡良瀬川に挟まれた低地で、上野・下野・武蔵・下総の境目にあたる。誰にとっても「隣」であり、誰にとっても取っておきたい場所だった。金山城の由良氏、唐沢山城の佐野氏と同じく、館林の主もまた、大勢力のあいだで去就を決め続けなければならなかった。
天正十八年(1590)の小田原征伐で後北条方の館林城は落ち、まもなく徳川の世が来る。境目の城が、幕府の要石へと役割を変えた瞬間である。
【将軍を出した城】
徳川家康の関東入部にともない、榊原康政が十万石で入る。徳川四天王の一人であり、上野・下野の押さえとして館林が選ばれたことになる。
そしてこの城の名を決定づけたのが徳川綱吉である。三代将軍家光の四男として生まれた綱吉は、館林藩主二十五万石として「館林宰相」と呼ばれ、延宝八年(1680)に兄・家綱の跡を継いで五代将軍となった。

「館林市指定史跡 館林城跡」の標柱と土橋門
壬生城が将軍の泊まる城だったとすれば、館林城は将軍を送り出した城だった。同じ北関東でも、幕府との距離の取り方がまるで違う。
綱吉が将軍となった後、館林藩は一時廃藩となり、城も廃された。復活するのは宝永五年(1708)、松平清武による再築を待ってからである。
【幕末の秋元志朝と、旧藩士たちの沼】
館林城でもう一つ心に残るのは、幕末以降の話である。
三の丸土橋門の南には秋元志朝頌徳碑が立つ。幕末の藩主・秋元志朝が行った各種の藩政改革と山陵修復事業を顕彰するものだ。現地の解説はこの碑について、江戸末期の秋元氏の藩政が館林の近代化につながったこと、そして館林城跡が旧藩士の心の拠り所となっていたことを示している、と書いている。

三の丸の土塁と土塀。城の遺構は大半を失ったが、西側台地上に一部が残る
さらに城内には城沼墾田碑がある。明治三十六年(1903)に建てられたもので、明治期に秋元氏が行った士族授産事業としての城沼墾田事業を記念している。
禄を失った旧藩士たちが、かつて城を守っていたその沼を開墾して生きた。守りの沼が、実りの沼に変わったということでもある。栃木城の坂本與兵衛が城を守った褒美の巻物で寺子屋を開いたように、武士が武士でなくなったあとの身の処し方が、ここにも刻まれている。
【館林城・場所・アクセス】
〒374-0018 群馬県館林市城町
東武伊勢崎線「館林駅」から徒歩約15分。東北自動車道 館林インターから車で約10分。市役所・文化会館一帯が城跡にあたる。
見どころは復元された三の丸土橋門と、その周囲に残る土塁。城沼はつつじが岡公園として整備され、春はつつじの名所となる。城の遺構は大半を失っているが、西側台地上に土塁の一部が残っている。
【館林城ゆかりの城】
