【津城(安濃津城)とは】
三重県津市丸之内にある津城は、伊勢平野のほぼ中央、安濃川と岩田川にはさまれた低地に築かれた平城である。古くは「安濃津城」と呼ばれた。伊勢は伊勢神宮への参詣路が通り、東海道と伊賀・大和へ抜ける道が交わる土地で、この城はその結節点を押さえる位置にあった。織田信長の弟・信包が近世城郭として整え、関ヶ原の前哨戦で焼け落ちたのち、築城の名手・藤堂高虎が大改修して藤堂家三十二万石の居城となる。いまは本丸と内堀の一部がお城公園として残り、石垣と堀、そして高虎の騎馬像が往時を伝えている。

本丸の丑寅櫓。昭和三十三年(1958)に建てられた模擬櫓だが、下の石垣は藤堂高虎が積んだもの
【織田信包の城】
安濃津の地にはもともと長野氏の一族・細野藤敦が城を構えていた。永禄十一年(1568)、織田信長が伊勢へ侵攻すると、弟の信包が長野氏の名跡を継いでこの地に入る。信包は城を拡張し、天正五年(1577)ごろには五層の天守を建てたと伝わる。本能寺の変ののち、信長の母・土田御前を引き取って庇護したのもこの信包である。
天正八年(1580)に信包は移り、代わって富田知信、その子・信高が城主となった。
【安濃津城の戦い — 千七百対三万】
慶長五年(1600)八月、関ヶ原の前哨戦がこの城で起きた。東軍についた城主・富田信高のもとにあった兵は、分部光嘉の兵と古田重勝からの援軍五百を合わせても千七百。対する西軍は毛利秀元・長束正家・安国寺恵瓊・鍋島勝茂・長宗我部盛親らを擁し、総勢三万にのぼった。
八月二十四日の朝、本格的な合戦が始まる。分部光嘉は毛利家臣の宍戸元次と一騎打ちを演じて双方が重傷を負い、信高自身も槍を振るって西軍に当たった。この乱戦のさなか、単騎で夫のもとへ駆けつけて危機を救ったのが信高の妻である。後世「美にして武なり」とうたわれた逸話として伝わる。翌二十五日、高野山の木食応其の仲介で和議が成り、城は開かれた。城下は焼け、戦後の再建は住民の疲弊で思うように進まなかったという。

お城公園に建つ「史跡 津城跡」の石柱
【藤堂高虎の大改修】
慶長十三年(1608)、伊予今治から藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石で入封する。宇和島城・今治城・伊賀上野城を手がけ、江戸城や大坂城の普請にも関わった当代随一の築城家である。高虎は焼け落ちた城を根本から作り直した。
本丸を大きく広げ、石垣を高く積み直し、二の丸・三の丸を配して堀を巡らせる。石垣の足元に幅の狭い平坦地を設ける「犬走り」は高虎の城によく見られる特徴で、津城の堀端でもはっきり確認できる。城下町も改められ、伊勢街道を城下へ引き込んで町人町を整えた。今日の津の街の骨格は、このときにできあがっている。

本丸の石垣。水面との間に細い平坦地=犬走りが走るのが高虎流
藤堂家はのちに三十二万石に加増され、外様でありながら幕府から厚い信頼を受けて幕末までこの地を治めた。城の東には藩校有造館が置かれ、伊勢・伊賀の学問の中心となる。

本丸跡に立つ藤堂高虎の騎馬像。津の街をつくった男である
【いまの津城跡】
明治の廃城で建物は失われ、堀の多くも埋め立てられたが、本丸と西の丸、内堀の一部が「お城公園」として残された。丑寅櫓は昭和三十三年(1958)に建てられた模擬櫓で、史実の姿とは異なるものの、石垣の上に櫓が乗る城の輪郭を想像させてくれる。市街地の真ん中で、堀の水面がいまも城の形を保っているのがこの城跡の魅力である。

市街地の中に残る内堀。ビルの足元に城の輪郭が生きている

横から見ると、高虎が積んだ石垣の高さがよくわかる
【津城・場所・アクセス】
〒514-0033 三重県津市丸之内(お城公園)
【津城地図】
