今治城(いまばりじょう)は、愛媛県今治市にある藤堂高虎の城で、海水を引き込んだ幅五十メートルから七十メートルもの堀を持つ日本屈指の海城です。堀の水位は潮の満ち引きで上下し、鯛などの海の魚が泳いでいます。高虎はここで、規格化した部材で組み上げる層塔型の天守を初めて建てたとされ、「築城の革命児」と呼ばれる理由がこの城に詰まっています。香川の高松城、大分の中津城とあわせて日本三大水城のひとつに数えられます。
- 関ヶ原の後、伊予半国二十万石を得た藤堂高虎が海辺の砂浜に築いた海城
- 堀には海水が出入りし、城内には船がそのまま入れる船入(港)があった
- 天守は当時最新の層塔型。のちに解体され、丹波亀山城に移されたと伝わる
- いまの天守や櫓、鉄御門は近年に再建されたもの。石垣と内堀は高虎の時代のまま

桜の向こうにそびえる天守。五重の天守は近年に再建されたものです。
今治城とは|藤堂高虎が砂浜に築いた海城
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍として働いた藤堂高虎は、伊予半国二十万石に加増されました。高虎はそれまで宇和島城を本拠にしていましたが、新しい領地を治めるため、瀬戸内海に面した今治の浜に新しい城を築くことを決めます。慶長七年(1602年)に工事を始め、建物まで含めて完成したのは慶長十三年ごろとみられています。場所はもともと砂浜で、海から砂が吹き上げられる土地だったことから「吹揚城(ふきあげじょう)」の別名も残っています。高虎がなぜ築城の名手になれたのかは藤堂高虎とはで詳しく書いています。
海水が満ち引きする堀|海の魚が泳ぐ城
今治城のいちばんの特徴は、海水を引き込んだ広い堀です。内堀の幅は五十メートルから七十メートルもあり、いまも海とつながっているため、潮の満ち引きにあわせて水位が変わります。堀の中には鯛やチヌなどの海の魚が泳ぎ、エイやサメが入り込んだこともあるほどです。高虎は城のまわりに三重の堀をめぐらせて海水を引き入れ、城を海の中の島のように仕立てました。宇和島城も西半分が海に面した海城でしたが、今治城は堀そのものを海にしてしまった点で、さらに一歩進んだ造りでした。海に守られた伊予の城としては、村上水軍の来島城とあわせて読むと違いがよくわかります。

海水をたたえた内堀。石垣の上に櫓が並び、奥に天守が見えます。
城の中に港があった|船入という発想
今治城の城内には、船がそのまま入って停泊できる「船入(ふないり)」が設けられていました。城の中の港としては国内最大級で、高虎は自分の水軍をここに置き、瀬戸内海を行き来する船をにらみました。四国と九州の大名が大坂や江戸へ向かうとき、必ずこの海を通ります。今治城は、その海の道を押さえるための城でもありました。船入はのちの今治港に受け継がれ、海事都市・今治の出発点のひとつになっています。秀長のもとで高虎が関わった吉川平介の船団の話と並べると、海を使う発想の系譜が見えてきます。
高さ十三メートルの石垣と犬走り|砂地に城を建てる工夫
砂浜の上に重い石垣を積めば、地盤が沈んだり崩れたりします。高虎は石垣の根もとに「犬走り」と呼ばれる平らな段を設け、石垣を支える土台にしました。石垣は自然の石を積んだ野面積みで、高さは九メートルから十三メートルほどあります。宇和島城でも高さ十三メートルの石垣を築いた高虎は、ここでも同じ高さの石垣を、今度はやわらかい砂地の上に実現しました。のちに伊賀上野城で約三十メートルの高石垣を築くまで、高虎の石垣は城ごとに進化していきます。

雨の日の内堀。高石垣の上に多聞櫓が長く続き、石垣の足もとには水ぎわに沿って平らな段がめぐっています。

石垣と白壁の櫓に四方を囲まれた枡形。敵を閉じこめて迎え撃つための空間です。
層塔型天守の始まり|なぜ「築城の革命児」なのか
今治城で高虎が建てたとされる五重の天守は、当時最新の層塔型だったと考えられています。それまでの天守は、大きな入母屋造りの建物の上に物見の望楼を載せる望楼型で、一棟ごとに形がばらばらでした。層塔型は四角い天守台の上に、少しずつ小さくなる同じ形の階を積み重ねる方式で、規格化した部材を使えるため、早く、安く、同じ品質で建てられます。この考え方は江戸時代の天守の主流になりました。石垣を高く積むこと、海を堀に変えること、天守を規格化すること。高虎が「築城の革命児」と呼ばれるのは、城づくりのやり方そのものを変えたからです。高虎が大改修した伊勢の津城や、秀長のもとで普請に関わった和歌山城と比べてみると、その変化がよくわかります。

同じ形の階を少しずつ小さくしながら積み重ねた姿。再建天守ですが、層塔型の形がよくわかります。
高虎が去ったあと|藤堂高吉から久松松平家へ
慶長十三年(1608年)、高虎は伊勢・伊賀へ移り、今治は養子の藤堂高吉が城代として預かりました。寛永十二年(1635年)からは久松松平家の居城となり、そのまま明治まで続きます。明治二年(1869年)に廃城となると建物はほとんど取り壊され、内堀と本丸まわりの石垣だけが残りました。その後、昭和の終わりごろから天守、御金櫓、山里櫓、鉄御門などが順に再建され、海に浮かぶ城の姿がよみがえっています。高虎が秀長のもとで過ごした時代は藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかで扱っています。

堀ばたから見上げた高石垣。石垣と内堀は、高虎の時代から残るものです。

本丸へ向かう道。桜並木の先に門と櫓が続きます。
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今治城の見どころと行き方
見どころは、海水をたたえた内堀と、その上に立ち上がる石垣、そして再建された鉄御門の枡形です。天守の中は資料館になっていて、最上階からは瀬戸内海としまなみ海道の島々が見渡せます。城内には藤堂高虎の騎馬像も立っています。JR今治駅からはバスで「今治城前」下車、歩くと約二十分です。天守の開館は九時から十七時で、駐車場もあります。高虎ゆかりの城をまとめてめぐるなら秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイドも参考にしてください。
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城内に立つ藤堂高虎の騎馬像。背後に天守がそびえます。
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【今治城・場所・アクセス】
〒794-0036 愛媛県今治市通町3-1-3
【今治城地図】

