熊本城:加藤清正が築いた扇の勾配の石垣と、特別見学通路で見る復旧の今

熊本城:加藤清正苦心の城 石垣が立派な新緑の熊本城

熊本城(くまもとじょう)は、加藤清正が築いた熊本県熊本市の城で、城域はおよそ九十八万平方メートル(約九十八ヘクタール)、周囲は約五・三キロにおよぶ日本有数の巨城です。下はゆるやかで上へ行くほど垂直に反り返る「扇の勾配(武者返し)」の石垣で知られ、西南戦争では西郷軍の猛攻に耐え抜きました。熊本地震で大きな被害を受けましたが、いまは地上約六メートルの特別見学通路から、復旧が進む城の姿を間近に見ることができます。

この記事のポイント
  • 城域は約九十八万平方メートル。加藤清正が茶臼山の丘陵全体を城に変えた
  • 石垣は上へ行くほど垂直になる「扇の勾配」。清正と細川家の石垣が並ぶ「二様の石垣」も見どころ
  • 西南戦争で天守は焼けたが、城は西郷軍に落とされなかった
  • 熊本地震のあと天守閣は復旧。長さ約三百五十メートルの特別見学通路から復旧の現場を見学できる

※この記事の写真は、熊本地震の前の熊本城の姿です。

目次

熊本城とは|加藤清正が築いた九十八万平方メートルの巨城

熊本城は熊本市中央区の茶臼山丘陵に築かれた平山城で、別名を銀杏城(ぎんなんじょう)といいます。城域は約九十八万平方メートル、東京ドームおよそ二十個分にあたり、丘陵全体に石垣をめぐらせて、大小の天守と数多くの櫓を並べました。築いたのは、秀吉子飼いの武将で築城の名手としても知られる加藤清正です。清正は賤ヶ岳の七本槍のひとりでもあり、その後の七人の運命は賤ヶ岳の七本槍とはで書いています。

熊本城の大天守と小天守

大天守と小天守。黒い下見板張りの外観が、石垣の上に重なるようにそびえます。

隈本城から熊本城へ|清正が入るまで

この地には、文明年間(一四六九年ごろ)に肥後守護・菊池氏の一族が城を築いたのが始まりとされ、のちに大友氏に協力した城親冬が居城としました。天正十五年(1587年)、秀吉の九州平定で城氏は城を明け渡し、肥後の新しい領主には佐々成政が任じられます。ところが成政は秀吉の指示に反して検地を急ぎ、肥後国人一揆を引き起こしてしまいます。隈本城は国人衆の猛攻を受けましたが、城代の神保氏張が守り抜きました。翌年、成政は一揆の責任を問われて切腹を命じられ、代わって加藤清正が肥後北半国十九万五千石の領主として隈本城に入りました。成政の生涯は佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのかをご覧ください。

清正の築城|「隈本」から「熊本」へ

清正は茶臼山の丘陵一帯に新しい城を築き始め、慶長五年(1600年)ごろには天守が完成しました。関ヶ原の戦いのあと、西軍についた小西行長の領地も与えられ、清正は肥後一国五十二万石の大名になります。行長の宇土城の天守を移したとも伝わる宇土櫓の話は宇土城跡で書いています。城は慶長十一年(1606年)ごろに完成し、翌年には地名を「隈本」から「熊本」に改めました。朝鮮出兵で籠城の苦しさを知った清正は、城内に百二十以上の井戸を掘り、長い籠城に耐えられる城を目指したといわれます。朝鮮での戦いについては朝鮮出兵をわかりやすく解説をどうぞ。

▽ よく語られる話
清正は籠城に備えて、畳の芯に芋茎(ずいき)を入れ、土壁には干瓢を塗り込めて、いざというときは食べられるようにしました。城内に銀杏を植えたのも、実を食料にするためでした。
▼ 史実ではこうです
芋茎や干瓢の話、銀杏の話は、清正の用心深さを伝える話として古くから語られてきたもので、確かな記録で裏づけられているわけではありません。ただ、城内に多くの井戸を掘り、長期の籠城を想定していたことは確かです。

扇の勾配|上へ行くほど垂直になる石垣

熊本城の石垣は、根もとはゆるやかな坂のように始まり、上へ行くほど急になって、最後はほとんど垂直に反り返ります。扇を開いたときの曲線に似ていることから「扇の勾配」と呼ばれ、登ろうとした武者がはね返されることから「武者返し」とも呼ばれます。下がゆるやかなのは石垣の重さを広い面で受け止めて崩れにくくするためで、上が垂直なのは敵をよじ登らせないためです。強さと守りを一つの曲線で両立させたところに、清正の築城術の真骨頂があります。

この曲線の積み方を書き残したのが、熊本藩の石垣職人に伝わった『石垣秘伝之書』です。清正本人が書いたものではなく、清正の死後、江戸時代に藩の石垣技術者が受け継いだ技術を書き留めたもので、石垣の高さに応じてどんな勾配で積むかが体系的にまとめられています。ポイントは石垣の断面を三角形に見立て、その底辺の長さを上の段へ行くほど短くしていくことで、こうして積み上げると、石垣の面は自然と弓なりの曲線を描きます。この書物は、熊本地震のあとの石垣の復旧工事でも手がかりにされています。石垣の技術が城ごとにどう進化したかは、藤堂高虎の伊賀上野城の高石垣と比べるとよくわかります。

熊本城の反り返る高石垣と櫓

上へ行くほど垂直に反る高石垣。石垣の上に櫓が張り出しています。

二様の石垣|清正と細川家、二つの時代が並ぶ場所

本丸の東側には、勾配の違う二つの石垣が重なるように並んでいる場所があり、「二様の石垣」と呼ばれています。手前のゆるやかな石垣が加藤清正の時代のもの、その奥に継ぎ足されたより急な石垣が、あとから入った細川家の時代のものと考えられています。一か所で二つの時代の石積みの技術を見比べられる、熊本城ならではの見どころです。寛永九年(1632年)、清正の子・加藤忠広の改易によって豊前小倉から細川忠利が肥後五十四万石の領主として入ると、忠利はすぐに幕府に城の修理を願い出ました。修理は建物だけでなく本丸の増築にまでおよび、いま見られる縄張りはこのときに完成したものです。忠利は入城のとき天守に上り、清正を祀る本妙寺の方角に向かって遥拝したとも伝えられます。石垣の城づくりでは、同じく築城の名手とされた藤堂高虎の今治城や宇和島城と比べてみるのもおすすめです。

熊本城の石垣と櫓、塀

高石垣の上に櫓と塀が続きます。角の部分ほど石垣が高く鋭く立ち上がっています。

闇り通路と本丸御殿

慶長十五年(1610年)ごろから、南北に分かれていた本丸の間の通路をまたぐ形で本丸御殿が建てられました。このため天守に向かうには、御殿の下をくぐる地下通路を通らなければなりません。この通路は「闇り(くらがり)通路」と呼ばれ、いまも本丸御殿の入口として使われています。御殿のなかでもっとも格式の高い「昭君之間」は、豪華な障壁画で飾られた部屋として再現されています。清正が秀吉のもとでどう出世したかは加藤清正の生涯で書いています。

西南戦争|天守は焼けても城は落ちなかった

明治十年(1877年)の西南戦争で、熊本城には谷干城の率いる政府軍が籠もり、西郷隆盛の薩摩軍の攻撃を受けました。開戦の直前、原因不明の火災で天守や本丸御殿は焼け落ちましたが、薩摩軍は石垣を越えることができず、およそ五十日にわたる籠城の末、城は落ちませんでした。西郷が「清正公と戦っているようなものだ」ともらしたという話が残るほど、清正の城は二百七十年後の戦いでも役目を果たしたのです。籠城を想定した城づくりという点では、同じ九州の島原城の歴史とも重なります。天守は昭和三十五年(1960年)に鉄筋コンクリートで外観が再建されました。

高石垣越しに見る熊本城の櫓と天守

高石垣の上の櫓と、その奥にそびえる天守。

熊本地震と特別見学通路|空中回廊から見る復旧

熊本地震で熊本城は大きな被害を受け、五十か所で石垣が崩れ、国の重要文化財の建造物十三棟すべてが被災しました。隅の石垣一列だけで櫓を支えた飯田丸五階櫓の「奇跡の一本石垣」は、多くの人の記憶に残っています。その後、天守閣の復旧が完了して内部の公開が再開され、地階の穴蔵から最上階の展望フロアまで、加藤・細川の時代から西南戦争、地震と復旧までの歴史を展示で追えるようになりました。

復旧工事の現場を見学できるように設けられたのが「特別見学通路」です。地上から約六メートルの高さに架けられた長さ約三百五十メートルの空中回廊で、南側の入口から飯田丸五階櫓の北側を通り、二様の石垣、連続する外枡形、東竹の丸を経て、本丸御殿と天守閣前の広場へとつながっています。崩れた石垣や被災した建物を真上から見下ろしながら進む、ほかの城では体験できないルートです。現存する宇土櫓は「第三の天守」とも呼ばれ、いまは解体して修理する大がかりな工事が進められています。城全体の完全な復旧までには、まだ長い年月がかかる見込みです。

熊本城の見どころと行き方

見どころは、扇の勾配の高石垣、二様の石垣、特別見学通路からの眺め、天守閣最上階からの熊本の街並みです。熊本市電の「熊本城・市役所前」電停から歩いてすぐで、市電の走る通りからも天守を見上げることができます。工事の状況によって見学できる範囲や通路が変わることがあるため、出かける前に公式の案内を確認しておくと安心です。九州の城と秀吉ゆかりの城をあわせてめぐるなら秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイドや、同じ肥後・肥前の島原城もあわせてどうぞ。

市電の通りから望む熊本城

市電の走る通りから見上げる熊本城。街の真ん中に城がそびえています。

【熊本城・場所・アクセス】
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1

【熊本城地図】

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