有岡城は伊丹の市街地のただなかに石垣を残しています。荒木村重が織田信長に背いて一年を籠もり、説得に訪れた黒田官兵衛が土牢に閉じ込められた城として知られますが、城そのものの特徴はもうひとつ別のところにあります。城下町を丸ごと堀と土塁で囲む惣構を、小田原城よりずっと早い時期に備えていた城でした。
- 町ごと囲む惣構をもつ、日本でも早い時期の城
- もとは伊丹氏の城で、荒木村重が奪って改修した
- 村重の謀反と、黒田官兵衛が幽閉された土牢で知られる
- いまはJRの駅前に石垣と土塁が復元されている
有岡城とは:町を囲い込んだ平城
有岡城があるのは兵庫県伊丹市、猪名川が運んだ低地に張り出した台地の端です。もとは伊丹城と呼ばれ、南北朝のころから摂津の国衆である伊丹氏が拠っていました。京と西国を結ぶ道が近くを通り、大坂湾にも近いという位置が、この城の価値を決めています。
天正二年(一五七四年)、摂津を任された荒木村重が伊丹氏を追い、城を大きく造り替えて有岡城と改めました。台地の上に本丸を置き、北と南に砦を配し、その全体を堀と土塁で囲む構えです。
惣構は小田原が最初ではない
城の周囲を堀で囲むだけでなく、城下の町ごと囲い込む。この考え方は、関東の小田原城の総構でよく知られています。ただ、順番を確かめておくと見え方が変わります。
村重の謀反と、官兵衛の土牢
天正六年、村重は石山本願寺や毛利氏の誘いに応じて信長に背きました。理由ははっきりしません。家臣が本願寺へ兵糧を横流ししていたことが露見して追い詰められたとも、信長のやり方に不安を覚えたとも言われ、決め手となる史料はありません。
村重を説得しようと城へ入ったのが黒田官兵衛です。ところが官兵衛は捕らえられ、土牢に閉じ込められました。一年近くにわたる幽閉のあいだ、狭い牢で足を痛め、以後は歩行が不自由になったと伝えられます。信長は裏切りを疑って官兵衛の子を殺すよう命じますが、竹中半兵衛がひそかにかくまったという話も残ります。中津城を築くのちの官兵衛の人生は、この土牢を経てのものでした。
籠城は一年に及びました。三木城の別所氏も同じ時期に籠もっており、織田方は摂津と播磨の二正面で長い包囲を強いられています。やがて村重は城を出て尼崎へ移りますが、城に残された妻子や家臣の家族は助からず、多くの命が失われました。村重自身は毛利を頼って生き延び、のちに剃髪して茶の湯の世界へ入っています。

城跡に立つ石碑と石垣。駅のすぐ西側に、本丸の一角が復元整備されている。
石垣に混じる石仏
発掘された石垣には、石仏や墓石が混じっていました。急いで城を固めるために、近くの寺や墓地から石材を集めて積んだのです。転用石と呼ばれるこうした石は各地の城で見つかりますが、有岡城のものは数が多く、普請の切迫ぶりを伝えています。
城跡はJR伊丹駅の西側に整備され、石垣と土塁、井戸の跡、礎石建物の跡を見ることができます。惣構の堀は市街地の下に埋もれていますが、道の曲がり方や土地の高低に、その名残を読み取ることができます。
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有岡城跡・場所とアクセス
兵庫県伊丹市伊丹二丁目。JR福知山線の伊丹駅を出てすぐ西側が城跡です。史跡公園として自由に入れます。伊丹は酒造の町でもあり、江戸へ下る下り酒の産地として栄えました。町なかには酒蔵を利用した施設が残っています。三木城や上月城とあわせれば、織田と毛利がぶつかった時期の摂津・播磨が見えてきます。
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