千葉城(ちばじょう)は、亥鼻城(いのはなじょう)とも呼ばれる千葉氏の城館跡です。源頼朝の挙兵に応じた千葉常胤の本拠がこの亥鼻の丘にあったと伝えられ、千葉という地名と市の名の由来にもなりました。丘の上には天守を模した建物が建っていますが、これは郷土博物館として建てられたもので、当時の城に天守はありません。桜の名所として知られ、春には公園全体が花に覆われます。
- 頼朝を支えた千葉常胤の本拠と伝わる、下総千葉氏のはじまりの地
- 丘の上の天守風の建物は郷土博物館で、城の復元ではない
- 千葉氏はのちに本佐倉城へ本拠を移し、亥鼻は主舞台ではなくなった
- 一族は内紛で分裂し、戦国期には北条氏の傘下に入る

石垣の前に立つ騎馬武者の像。弓を手に馬を進める姿で、その奥に天守を模した博物館の建物が見える。
亥鼻という場所
亥鼻は、都川に面した台地の先端です。東京湾に向かって開けた低地を見おろし、川と海のどちらにも近い。中世の関東で城館が置かれるのは、たいていこうした台地の縁でした。今は市街地に囲まれていますが、丘に登れば、地形の高低はすぐにわかります。
この丘に千葉氏の館があったことは、古くから伝えられてきました。ただし発掘で確認されている遺構は室町期以降のものが中心で、常胤の時代の館そのものの姿はわかっていません。千葉市立郷土博物館では、この地域の中世について資料を展示しています。
千葉常胤と源頼朝
治承四年(一一八〇)、石橋山で敗れた源頼朝は、海を渡って房総へ逃れました。このとき頼朝を迎え入れ、兵を出したのが千葉常胤です。常胤はすでに六十を越えていましたが、一族を挙げて頼朝に従い、鎌倉を目指す道筋を助けました。頼朝が常胤を父のように敬ったという話が伝わるほど、その働きは重く見られています。
幕府が開かれると、千葉氏は下総の守護に任じられ、奥州や九州にも所領を得ました。鎌倉幕府の有力御家人として、そのはじまりの段階から関わった一族です。

桜の季節。枝のあいだに提灯が下がり、その向こうに建物が浮かぶ。花見の時期には多くの人が訪れる。
千葉氏はなぜ衰えたのか
武蔵へ逃れた側は赤塚城や石浜に拠り、武蔵千葉氏と呼ばれました。同じ名を持つ家が江戸湾をはさんで並び立ち、両者が交わることはありませんでした。宗家の拠った本佐倉城は、土の大城郭として今も遺構がよく残っています。
房総をめぐる争いのなかで
戦国期の房総は、安房の里見氏と、相模から進出してきた北条氏がぶつかる場所でした。国府台城の周辺ではくり返し合戦が起こり、そのたびに下総の国衆は立場を選び直しています。千葉氏もそのなかにあり、亥鼻の城が使われた時期はとうに過ぎていました。
亥鼻に城を築いたのは里見氏だという説も伝えられています。本佐倉の千葉氏に圧力をかけるため、という筋書きです。どの時期に誰が手を入れたのかは定まっておらず、この丘の城の姿は、いくつもの時代が重なったものとして考えるのが正確です。

青空に桜、そして望楼を載せた建物の上層。石垣は建物にあわせて積まれたもので、城の遺構ではない。
千葉城跡の訪ね方
亥鼻公園は千葉駅からバスで十分ほど、県立中央博物館や大学のキャンパスに隣接しています。丘の上に千葉市立郷土博物館があり、常胤の像や説明板も置かれています。博物館では千葉氏と中世の下総について展示があり、城跡としての情報もここで得られます。
桜の季節には祭りが開かれ、丘全体が花見の場になります。城の遺構を見に行く場所というより、千葉という町の始まりを確かめに行く場所です。あわせて本佐倉城まで足を延ばすと、千葉氏が土の城をどう築いたかがはっきりわかります。
所在地:〒260-0856 千葉県千葉市中央区亥鼻1-6-1
花輪城跡(流山市):小金城の高城氏が置いた支城と、北条の他国衆という立場
小さな支城が何をしていたのか。関東の国衆と北条氏の関係が見えてきます。
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
日帰り:江戸川を挟む戦国の大激闘(車・日帰り)
日帰り:関東の月星紋・千葉一族の栄華(車・日帰り)

