岡山城:宇喜多秀家が旭川を付け替えて築いた烏城と、不等辺五角形の天守台

岡山城:乱世の梟雄 宇喜多直家の居城

岡山城は旭川の流れを堀に見立てて築かれた城で、下見板を黒漆で塗った外観から烏城と呼ばれてきました。築いたのは宇喜多秀家。父の直家が小さな城を奪って足がかりにした場所を、秀家が川筋を付け替えてまで作り直し、五十七万石の城として完成させています。関ヶ原で秀家が失脚したあとは小早川秀秋、そして池田氏が入り、幕末まで岡山を治めました。

この記事のポイント
  • 宇喜多直家が奪った石山の城を、秀家が大城郭に造り替えた
  • 旭川を東へ付け替えて天然の堀とし、城下町を新しく開いた
  • 天守台は不等辺の五角形で、天守もその形に合わせて建った
  • 天守は空襲で焼け、月見櫓と西手櫓が江戸時代から残る
目次

岡山城とは:黒い天守と川の堀

岡山城は岡山市の中心、旭川の西岸にあります。城が建つのはもともと石山と呼ばれた小高い土地で、その東を流れていた川を人の手で付け替え、本丸の背後に回して堀の代わりにしました。城の東側には川しかなく、西側に城下町が広がるという構えです。天守の壁は黒い下見板で覆われ、姫路城の白と対をなす姿から烏城の名がつきました。

この天守がのっている台は、四角ではなく不等辺の五角形をしています。石山という自然の高まりの形に合わせて石垣を積んだためと考えられ、天守自体も土台に合わせていびつな平面を持っていました。城を造るときに地形を優先した結果が、そのまま建物の形になっているわけです。

岡山城の天守を見上げる

天守を真下から見上げる。黒漆を塗った下見板が幾重にも重なり、烏城の名の由来になった。

宇喜多直家は「梟雄」だったのか

岡山城の出発点をつくったのは宇喜多直家です。備前の小さな国人の家に生まれ、祖父の代に没落した家を一代で立て直し、沼城(亀山城)を経てこの石山の城に入り、城下に商人を集めて町を開きました。ところがその名は、謀略と暗殺を重ねた男としてのほうがよく知られています。

▽ よく語られる話

宇喜多直家は舅も義弟も謀殺した戦国三大梟雄のひとりで、裏切りと暗殺だけで成り上がった。

▼ 史実ではこうです

直家が敵対する国人を討ち、縁戚を切ったことは記録に見えますが、梟雄という人物像そのものは江戸時代の軍記物のなかで形づくられた面が大きいものです。備前は小さな勢力が割拠して浦上氏の下で争う土地で、生き残るためには同じことを誰もがしていました。直家は同時に城下町の整備や商人の招致を進めており、岡山という都市の骨格はこの時期に引かれています。悪名だけで語ると、その仕事が見えなくなります。

宇喜多秀家が川を動かして築いた城

直家の跡を継いだ秀家は、豊臣秀吉の養女を妻に迎え、備前・美作に備中の一部を加えた五十七万石の大名として五大老に列しました。その秀家が天正18年(1590年)ごろから七年ほどをかけて進めたのが、石山の東にあらためて本丸を築き、旭川を東へ付け替える大工事です。川は城の背後を守る堀となり、西側には広い城下町が開かれました。

五重六階の天守が上がったのもこのときです。金箔を押した瓦が使われたことから金烏城とも呼ばれました。ところが関ヶ原の合戦で秀家は西軍の主力として戦い、敗れて薩摩に身を隠したのち八丈島へ流されます。島で五十年を過ごし、八十代まで生きたと伝えられ、関ヶ原に参じた大名のなかで最も長い晩年を送った人物になりました。

旭川越しに望む岡山城の天守

旭川の対岸から見る天守。この川は秀家が城の東へ付け替えたもので、そのまま堀の役目を果たした。

小早川秀秋の二年と、池田氏の二百五十年

関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀秋は、その功で備前と美作の五十一万石を与えられ岡山城に入りました。秀秋は二の丸と三の丸を広げ、城下の外周に堀をめぐらせる工事を進めますが、入城から二年ほどで急死します。跡継ぎがおらず、小早川家はここで絶えました。

次に入ったのが池田輝政の子、忠継です。以後、池田氏が三十一万石余りで幕末まで岡山を治めました。四代綱政の代には城の北側に大きな庭が造られ、これがのちに日本三名園に数えられる後楽園になります。旭川の中州を丸ごと使った庭で、天守を借景として眺められるよう設計されました。備前焼や児島の綿など領内の産物も育ち、岡山は西国の大きな城下町として成熟していきます。

岡山城の堀と石垣

堀に架かる橋と石垣。水面にはスイレンが広がり、城の外周がそのまま公園として開かれている。

城下町の広がりと、後楽園

岡山の町は、旭川を付け替えたことで生まれた土地の上に広がりました。城の西から南へ武家地と町人地が帯のように並び、川湊から瀬戸内の航路へつながる商いの道が開かれます。備前焼の里が近く、干拓で生まれた新田は綿や藺草を産み、城下の市は西国でも有数のにぎわいを見せました。

四代綱政が旭川の中州に造らせた庭は、当初は藩主が客をもてなし、自らくつろぐための場所でした。広い芝地に池と築山を配し、田畑や茶畑まで取り込んだ造りで、天守をそのまま景色の一部として借りています。幕末の岡山藩は、姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の岡山藩のページにまとめたとおり、新政府側に立って明治を迎えました。城は取り壊されずに残り、天守が失われるのはそれから七十年以上あとのことです。

空襲で焼けた天守と、残ったもの

岡山城の天守は江戸時代を通じて建ち続け、国宝にも指定されていました。それを失わせたのは戦争です。昭和二十年の岡山空襲で天守は焼け落ち、石山門も失われました。いま建っている天守は戦後に鉄筋コンクリートで再建されたもので、外観は焼失前の姿を写しています。

焼け残った建物もあります。本丸の北東に建つ月見櫓と、西の丸の西手櫓です。どちらも池田氏の時代に建てられた櫓で、国の重要文化財に指定されています。本丸の中の段では発掘によって宇喜多時代の石垣が見つかり、地下に保存されて見学できるようになりました。秀家が積んだ石垣の上に、後の時代の石垣が重なっている様子がそのまま見て取れます。

岡山城の天守と塩蔵

再建された天守を横から見る。手前の白壁は塩蔵で、黒い天守との対比が城の顔になっている。

岡山城・場所とアクセス

岡山県岡山市北区丸の内2-3-1。JR岡山駅から路面電車で城下電停、そこから歩いて十分ほどです。天守は有料で、後楽園との共通券も用意されています。城と庭は旭川をはさんで向かい合っており、月見橋を渡れば行き来できます。天守の最上階から見下ろすと、川が城の東を回りこむ形がよくわかり、秀家が何をしたのかが一目で理解できます。日本100名城のスタンプは天守の入口に置かれています。

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