坂本権平・一同 宛

坂本権平・乙女・おやべ(春猪) 宛(桂小五郎なるものあり)

◎宛先:坂本権平・一同 宛

原文

此手紙もし親類之方などに御為見被成候ハゞ必ず々誰れかに御書取らセ被成候て御見セ。
順蔵さんえも其書き写さ礼し書を御見セ。私手紙ハ必ず々乙姉さんの元に御納め可被遣候。御一同様龍馬

一、今春上京之節伏見にて難にあい候頃より、鹿児島に参り八月中旬より又長崎に出申候。先日江ノ口之人溝渕広之丞に行あひ候而、何か咄しいたし申候。其後蒸気船の将武藤早馬に行逢候得ども、是ハ重役の事又ハ御国に帰れなど云ハれん事を恐れ、しらぬ顔して通行しに、広之丞再三参り、私之存念を尋候ものから認め送り候処、内々武藤にも見セシ様子。此武藤は兼而江戸に遊びし頃、実に心路安き人なれバ、誠によろこびくれ候よし。旧友のよしミハ又忝きものにて候。其私の存念ハ別紙に指上候。御覧可被遣候。

一、別紙之内女の手紙有之。是ハ伏見寺田屋おとセと申者にて候。是ハ長州家及び国家に志ある人々ハ助けられ候事ども有之者なり。元より学文も十人並の男子程の事ハいたし居り候ものなり。それハ薩州に送り来り候手紙一つ指上候。伏見之危難よく分り申候。

一、別紙に木圭と申人の─桂小五郎と申人なり。─手紙有之候。是ハ長州の政事を預り候第一之人物にて、此人之手跡、四方之人ほしがり候。幸手元に数々有之から指出候。一、社太郎も此頃ハ丈夫に相成候べしと存候。夫男児を育るハ誠ニ心得あるべし、とても御国の育方にてハ参り兼候べしと、実ニ残念ニ存候。

一、上ニ申伏見之難ハ去ル正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉─此時二階居申候。─人の足音のしのび々に二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音から々と聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、─名ハ龍今妻也。─勝手より馳セ来リ云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき鎗を持ちて是も腰掛にか〃る。間もなく、壱人の男障子細目に明ケ内をうかがふ。見れバ大小指込なれバ、何者なるやと問しに、つか々と入り来れバ、すぐに此方も身がまへ致せバ、又引取りたり。早次ギの間もミシ々物音すれバ龍女に下知して、次の間又後の間のからかみ取りはづさし見れバ、早拾人計り鎗持て立並びたり、又盗賊燈灯二ツ持、又六尺棒持たる者其左右に立たり。双方暫くにらみあふ処に、私より如何なれバ薩州の士に不礼ハ致すぞと申たれバ、敵口々に上意なり、すはれ々との〃しりて進来る。此方も壱人ハ鑓を中段にかまへ立たり。敵より横を討ると思ひ、私ハ其左へ立変り立たり。其時銃ハ打金を上ゲ敵拾人斗りも鎗持たる一番右の初めとして一ツ打たりと思ふに、此者退きたり。又其次ぎなる者を打たりしに其敵も退きたり。此間敵よりハ鑓をなげ突きにし、又ハ火鉢を打込色々た〃かふ。味方も又鎗持て禦ぐ。家内の戦実に屋かましくたまり不申。其時又壱人を打しが中りし哉分り不申処、敵壱人障子の蔭より進ミ来り、脇指を以て私の右の大指の本をそぎ左の大指の節を切割、左の人指の本の骨節を切たり。元より浅手なれバ其者に銃をさし向しに、手早く又障子の蔭にかけ入りたり。扨前の敵猶迫り来るが故に、又一発致セしに中りし哉不分、右銃ハ元より六丸込ミな礼ども、其時ハ五丸のミ込てあれば、実ニ跡一発限りとなり、是大事と前を見るに今の一戦にて敵少ししらみたり。一人の敵黒き頭巾を着、たちつケをはき鎗を平省眼のよふにかまへ近々よりて壁に添て立し者あり。夫を見るより又打金を上ゲ、慎蔵が鎗持て立たる左の肩を銃の台にいたし、敵の胸をよく見込ミて打たりしに、敵丸に中りしと見へて、唯ねむりてたをる〃様に前にはらばふ如くたをれたり。此時も敵の方にハ実ニドン々障子を打破るやらふすまを踏破るやら物音すさまじく、されども一向に手元にハ来らず、此間に銃の玉込ミせんと銃の◎此様なるもの取りはづし、二丸迄ハ込たれども先刻左右の指に手を負ひ、手先き思ふ様ならず、阿屋まりて右玉室を取り落としたり。下を尋ねると雖ども元よりふとん引さがしたる上へ、火鉢の灰抔敵よりなにかなげ込し物と交り不分。此時敵ハ唯どん々計りにて此方に向ふ者なし。夫より銃を捨、慎蔵に銃ハ捨たりと言バ慎蔵曰、然時ハ猶敵中に突入り戦ふべしと云ふ。私曰、此間に引とり申さんと云へバ、慎蔵も持たる鑓をなげすて後のはしごの段を下りて見れバ、敵ハ唯家の店の方計りを守り進む者なし。夫より家の後なる屋そひをくゞり、後の家の雨戸を打破り内に入て見れバ、実に家内之者ハねぼけてにげたと見へて夜具など引てあり。気の毒ながら、其家の立具も何も引はなし後の町に出んと心がけしに、其家随分丈夫なる家にて中々破れ兼たり。両人して刀を以てさんゞに切破り、足にて踏破りなどして町に出て見礼バ人壱人もなし。是幸と五町斗りも走りしに、私病後の事なれバ、いききれあゆまれ不申、着物ハ足にもつれぐず々いたセバ敵追着の心配あり、─此時思ふにハ男子ハすねより下にたる〃着物ハ致すべからず候。此時ハ風呂より上りし儘なれバ、湯着を下ニ着て、其上にわた入れを着、はかまハ着る間なし。─つひに横町にそれ込ミて、御国の新堀の様なる処に行て町の水門よりはひ込ミ、其家の裏より材木の上に上り寝たるに、折悪く犬がほえて実にこまり入たり。そこにて両人其材木よりおりしが、つひに三吉ハ先づ屋敷に行べしとて立出しが屋敷の人と共にむかひに参り、私も帰りたり。扨彼指の疵ハ浅手なれども動脉とやらにて翼日も血が走り止ず、三日計も小用に参ると、目舞致候。此夜彼龍女も同時に戦場を引取り、直様屋敷に此よしを告げしめ、後ハ共々京の屋敷江引取り今ハ長崎江共々出づ。─此頃余程短銃上達す。─此伏見江取り手の来たりしを詮議するに、大坂町奉行は松平大隅守と云て、同志の様に度々咄しなど致し、面会時々したるに、この度は大坂より申し来りしとの事、合点ゆかずなおなお聞き合わすに、はたして町奉行は気の毒がり居り候よし。この大坂より申し来たりしは、幕府大目付某が伏見奉行へ申し来たるには、坂本龍馬なるものは、けっして盗みかたりは致さぬ者なれども、この者がありては徳川家の御為にならぬと申して、ぜひ殺す様との事のよし。この故は幕府の敵たる長州薩州の間に往来して居るとの事なり。其事を聞多る薩州屋敷の小松帯刀、西郷吉之助なども皆、大笑にてかへりて私が幕府のあわて者に出逢てはからぬ幸と申あひ候。この時うれしきは、西郷吉之助─薩州政府第一之人、当時国中に而は鬼神と云われる人なり─ハ伏見の屋敷よりの早使より大気遣にて、自ら短銃を玉込し立ち出んとせしを、一同押し留めて、とう々京留守居吉井幸輔、馬上にて士六十人ばかり引き連れ、迎いに参りたり。この時伏見奉行よりも打ち取れなど、の〃しりしよしなれども、大乱にも及ぶべしとてそのままに相成候よし。実に盛なる事にてこれあり候。私は、これより少々かたわにはなりたれども、一生の晴にてこれあり候。疵は六十日ばかり致しよく直りたり。左の大指は元の如し、人指は疵口よくつげて、ただ思う様に叶わぬと申すばかりにて、外見苦しき事なし。右の大指のわた持をそがれしは、一番よく直りたり。右の高指の先の節、少々疵つけども直様治りたり

一、七月頃、蒸気船─桜島といふふね─を以て薩州より長州江使者ニ行候時被頼候而、無拠長州の軍艦を引て戦争セしに是ハ何之心配もなく、誠ニ面白き事にてありし。一、惣而咄しと実ハ相違すれ共、軍は別而然り。是紙筆ニ指上ゲ候而も、実と不被成かも不知、一度やつて見たる人なれば咄しが出来る。

一、ここに小倉藩の蒸気船、肥後藩の蒸気船、幕府の蒸気船が出たり引っ込んだりしておれどもなぜ故に救いに来ないのか。このように二度まわり打って二度目に帆船のいかりをおろして戦う桜島という蒸気船で長州の軍艦を引く即ち私が船将長州の軍船の帆船この船に弾が二十発ばかり当たる小倉船長州軍船この船に弾が三十発ばかり当たる。二十四斤以下の弾丸なり。いかりのツナが弾に当たり切れて流れるまた替え、いかりを降ろして留める。「オテント」と申す蒸気船高杉晋作が船将長州方の諸隊小船にて渡り、陸戦をする。銃の音ゴマをいるように聞こえる。ここの山より船の戦いを助けモルチール砲を用いて大小砲撃を数十発快く敵の上に打ち気分がよい。七月十八日は小倉より長府を攻めると聞き十七日の夜明け前こちらから攻めた。ぶんどったのは火薬など長持ち七十個分大砲三十門あまり旧式の大砲なり。七月以後戦ひ止時なかりしが、とふ々十月四日と成り長州より攻取し土地ハ小倉江渡し、以後長州ニ敵すべからざるを盟ひ、夫より地面を改めしに、六万石斗ありしよし。右戦争中一度大戦争がありしに長州方五拾人斗打死いたし候時─軍にて味方五十人も死と申時、敵方合セておびたゞしき死人也。─先き手しバ々敗セしに、高杉晋作ハ本陣より錦之手のぼりにて下知し、薩州の使者村田新八と色々咄しなどいたしへた々笑ながら気を付て居る。敵ハ肥後の兵などにて強かりけれバ、晋作下知して酒樽を数々かき出して、戦場ニて是を開かせなどしてしきりに戦ハセ、とふ々敵を打破り肥後の陣幕旗印抔不残分取りいたしたり。私共兼而ハ戦場と申セバ人夥しく死する物と思ひしに、人の拾人と死する程之戦なれバ、余程手強き軍が出来る事に候。

一、水通三丁目に居し上田宗虎防主、池蔵太について大和に行しが、此頃長州ニて南奇隊参謀に成て芸州之戦に幕兵之野台場を攻たりしに、中々幕兵強くして破れ難し。上田、士卒に下知して進ミ兎角して砲台之外よりかき上り内に飛入しに、内ハまた外なる敵に向ひ数玉など打て盛なりしに、上田も士卒に下知するうち、幕之大砲号令官と行逢、刀を抜間もなくて組合しに敵方ハ破れぎハなり、つゞく兵ハなく宗虎方にハ部下之銃卒壱人馳セ来り、ケベールを以て打殺セしに組討にてたをれたる処なれバ、敵をバ打殺しつれども、宗虎がうでを打抜たり。宗虎ハ敵をバ追払ひ其台場をも乗り取り、自身ハ手をいためし計り之事にて、此頃名高き高名、中々花々敷事と皆々浦山敷がり申候。此事ついて只、宗虎が親類江御咄し被成候得バ、喜び可申存候。

一、お屋べどのの養子ハ如何様なる暮し方にや、定而心配斗にて気之毒なる事にてあるべく、おやべにハ早、どん腹と屋らおほきになりし事、とくより承りしが、男子出生なれバよろしからんと存じ候。

一、養子の事は如何様之武士に候哉、逢申度候。私も此頃は色々見聞いたす内、武士だけの事ハ、今ハ日本中ニ而格別はぢ申事ハさらに無之候間、御歓可被遣候。どふぞ養子が出て来れバ、少しハ武士道において導き可遣候と存候。

一、養子に御申聞被下度事ハ御国にて流行申候長剣ハ兼而も申候通り壱人々之喧嘩又ハ、昔咄しの宮本武蔵の試合など申時ハ、至極宜候得ども、当時の戦場にてハ悪く候。人数を指引致す人などハ銃をも持たぬもの故に、随分きらひやがおる。長剣も可宜候得ども手に銃を取る丈の人ハ実ハ刀もなくて可宜候得ども、其通りも参るまじけれバ弐尺壱弐寸斗の刀に、四五寸計の短刀が宜候。戦場ニ而引取り而は又かけ引取り而ハまたかけ仕時、刀を心掛候人ハ銃を捨るものにて、つひにハ惣人数の銃が少くなり申ものにて候間、譬侍馬廻りと申ても銃にて働く者ハ、刀ハなくても可然存候。戦場と申ても治世に思ふよふにいそがしき物にても無之候。譬へ敵鼻先きへ来るとも、少しの心得があれバ随分銃の込ミ替ハ出来るものにて候。

一、池蔵太曰、いつの戦にても敵合三五十間に成て銃戦之時ハ銃の音のする時弱き方、必ず地へ伏し申候。此時蔵太ハ辛抱して立ながら号令致し候とて、夫が自慢にて候。一、銃にて久しく戦時ハ必そこに拾人、かしこに弐拾人、或ハ三四拾人計り名々人の蔭により集り候。是ハ戦になれぬ者にてか様ニなり候方ハ、いつも死人多くなりまけ申ものにて候。強きものハか様にハならぬものにて候。先年英人長州にて戦しに船より上陸するとばら々と開き、四間に壱人宛計りに立並び候。

一、当時天下之人物と云ハ、徳川家ニハ大久保一翁、勝安房守。越前にてハ三岡八郎、長谷部勘右衛門。肥後ニ横井平四郎。薩にて小松帯刀。─是ハ家老にて海軍惣大将なり。─西郷吉之助。─是ハ国内軍事に懸る事国家之進退此人ニ預る。─長州にて桂小五郎。─国家之進退を預る当時木戸寛次郎。─高杉晋作。─此人ハ軍事ニ預る、此人下の関に出小倉攻之惣大将当時谷潜蔵。─一、私唯今志延而、西洋船を取り入たり、又ハ打破れたり致し候ハ、元より諸国より同志を集め水夫を集め候へども、仕合セにハ薩州にてハ小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候へなど申くれ候つれバ、甚だ当時ハ面白き事にて候。どふぞ々昔の鼻たれと御笑被遣間じく候。

一、こ〃にあはれなるハ池蔵太ニ而候。九度之戦場ニ出ていつも人数を引て戦ひしに、一度も弾丸に中らず仕合せよかりしが、一度私共之求しユニヲンと申西洋形の船に乗り、難に逢、五嶋の志ハざきにて乱板し五月二日之暁天に死たり。人間一生実ニ猶夢の如しと疑ふ。杉山えも此事御咄被成度、元より其死にたる岡にハ印あり。右之内生残る者四人と云。細江徳太郎と云ハ池蔵太事ニ而候。高泉と云、黒木半兵衛とて千葉十太郎の門人にて、真剣勝負之時平日之稽古と違ハず、人是をおどろく。

一、何卒去年御頼申上候父上を初め、皆様之御詠歌など御越し被遣度候。左之通御記し被成。又其上を左之通右十二月四日長崎本はかた町小曽根英四郎方にて記す。
此宿ハ此八月より定宿として滞留致し居候。

現代文

この手紙も親類の方などにお見せなされ、そして必ず誰かに書きとらせて見せて上げて下さい。順蔵さん(高松順蔵:姉の夫)へも書き写して見せて上げて下さい。手紙は必ず乙女姉さんの元で管理しておいて下さい。ご一同龍馬より

一、今春上京の伏見にて襲撃されたあと、鹿児島に行き、8月中旬よりまた長崎へ出発しました。先日江ノ口村の溝渕広之丞に会って、色々とお話しました。今後蒸気船の船将武藤早馬(土佐藩船空蝉船長)に行きあい、国へ戻れなどと言われないか恐れ、しらぬ顔して通り過ぎたが、再三溝渕広之丞が来て、私のこの考えを尋ねるので書いて送ってやったら内々に武藤にも見せた様子。この武藤は江戸へ遊学していた頃、実に心やさしい人なので喜んでくれた。旧友のよしみはまたありがたいものです。この私の考えは別の手紙に書いて送ります。是非ご覧くださいませ。

一、別紙の手紙の中に女の人とが書いてある。これは伏見寺田屋のお登勢という人のことです。この人には長州藩、及び国家に志ある人々が随分と助けられた。もとより学問も並みの10人くらいの男子くらいはしている人です。それは薩摩から送った手紙にも少し書いてある。伏見の危難はよくわかっていますでしょう。

一、別紙に書いた木圭とは桂小五郎という人のことです。この人は長州の政治を預かっている第一の人物で、この人の手をみんな借りたいと思ってます。幸い手元にたくさんの優れた人がいるのでこれらを派遣している。

一、社太郎(岡上赦太郎は乙女の子供)も最近は大きくなりましたことでしょう。男児を育てるのは本当に注意が必要で、とてもお国(土佐)での育て方では良くないから、実に残念です。

一、先に申した伏見の危難は正月23日の夜八ツ時半(3時半)頃で、連れの三吉慎蔵と話して風呂からあがり、早速寝ようかと思っていたら不思議な音がした。この時は二階にいた。一人の足音がしのびしのび一階を歩くと思ったら、六尺棒の音もカラカラと聞いた、かねてから話してある婦人(妻のお龍)「名前は龍といい、今は妻です」勝手口からかけてきて、ご用心するようにと言ったが、はからずも敵が襲ってきた。槍を持つ人数は梯子の階段を上り、自分たちも立ち上がり、袴を付けて次の間に置いてあった大小の刀をを差し、6連発銃を取って後ろの腰かけに向かった。連れの三吉慎蔵は袴を着て、大小を取り、槍を持ってこれも腰かけにきた。間もなく、何人かの男が障子に穴を開けて細目で様子をうかがってきた。見れば大小の刀はなく、「何者なるや」と聞いてきてつかつかと入ってきたので、こちらもすぐに身構えると、また向こうも引き返した。早々に次の間もミシミシと物音がしたので、お龍に下知して、次の間のまたその後ろの間のからかみ(唐紙:ふすま)を取り外させたが見ればそこにも10人程槍を持って立っていた。また、明り提灯を2つ持ち、さらに6尺棒を持ったものも左右に立っていた。双方しばらくにらみ合うが、私から「なぜ薩摩の武士に無礼をするのだ」と言ったが、敵は口々に上意なり、座れ座れと罵り進んでくる。この中の何人かは槍を中段に構えて立つ。敵は横から打ってくると思い、私はこの左へ立ち変わって立った。この時、銃の引き金を引き、槍を持った敵10人あまりの一番右前の敵を打ったら、この者は退いた。この間敵は槍を投げてきたので、また火鉢を投げ返して戦った。味方も槍を持って防ぐ。家の中の戦は実にやかましくてたまらん。この時はもう何人が討ち入ってきたのかもわからず、敵も何人も障子の蔭から進んできた。脇差をもって、私の右の親指の元を斬り、左の親指の節を斬られた。左の人差し指の骨の節も斬られた。元より浅手なので、この者に銃を差し向けて、障子の蔭に駈け行った。さて、前の敵が迫りくるのでまた一発発砲したが当たらなかった。この銃はもとより6発銃だけど、この時は弾が5発しかなかったので、実にこれはまずいと思ったが前を見ると、敵も少しひるんだ。一人の敵は黒い頭巾を着て、たちつケ(裁っ着け:袴の一つ)を履き槍を正眼に構えて近寄ってきて壁に添って立ったものいた。それを見て、引き金を引き、三吉慎蔵が槍を持って立っていたので、その左の肩を銃の台にして、敵の胸をよーく見て鉄砲を打った。敵は弾に当たったと見えて、ただ眠るように前に腹ばいのように倒れた。この時も敵の方には実にドンドン障子を打ち破るやら、ふすまをけ破るやら、物音がすさまじく、だけど、一向に手元には来ないので、この間に弾を込めようとして操作したけど、2つまでは弾を込めたけれども、さっき左右の指を斬られていたので、手先が思うようにならず、あやまって弾を落としてしまった。下を見ると言えども、元より布団が敷いてあるし、火鉢の灰などがあって、敵も何かを投げたりしてきていたので見つからなかった。そして、銃を捨てて、慎蔵に「銃は捨てた!!」と言うと、それなら敵の中に斬り込み戦うのみと言う。私は、いやいやこの間に逃げようと言い、慎蔵も持っていた槍を投げ捨て後ろの梯子の階段を下りてみれば、敵は店のまわりを取り囲むだけ進んでくるものがいない。家の後ろの屋根沿いを下り、後ろの家の雨戸を打ち破り中に入ってみれば、家の中は寝ぼけながら逃げたと見えて、ただ布団が敷いてあるだけだった。気の毒だけど、この家の家具も何も引き倒し、後ろの町にでようと思い、この家やたらと頑丈で中々蹴破れなかった。両人で刀を持って散々斬りやぶり、足でけ破りしてやっと町に出てみれば、だれもいない。これ幸いと五町あまりも走ったが、自分は傷を負っているので、息切れして歩けず、着物も足にもつれてぐずぐずしていたので、敵の追手に追いつかれる恐れがあり、(この時思うに男子はすねより下に垂れる着物は着るべきではないと)この時は風呂上りがったものだから、湯着を下に着ていて、この上から防寒着を着、袴は着る暇もなかった。ついに横町にそれて、国(土佐)の新堀のようなところに着て、町の水門から入り込み、この家の裏の材木の上に登り横になった。折悪く、犬が吠えて吠えて実に困りました。そこで、二人で材木に寄りかかり、ついに三吉は屋敷へ行くと言い、屋敷の人と共に迎えに来て私も助かりました。指の傷は浅手だけど動脈が斬られ翌日も血が止まらず、三日目にトイレに行くと目まいがした。この夜はお龍も同時に寺田屋を引き取り、すぐさま屋敷にこの旨告げて、後は二人とも京都の屋敷へ向かい、今は長崎へ二人で出てきています。この伏見へ討ち入りにきた経緯を考えるに、大坂町奉行は松平大隅守と言って、同志の様に度々話をして、時々は面会などもしたことがあり、松平大隅守は気の毒に思ってくれた。この度は大阪からの命令とのことで、大隅守は合点がゆかずになお色々と聞いてみてくれたところ、この大坂から命令してきたというのは、幕府大目付某(なにがし)で、彼が伏見奉行へ命令し「坂本龍馬なるものは決して盗みや脅しはしないけれども、この者がいては徳川家のためにならぬ」と言い、是非殺すようにとのことでした。この者は幕府の敵になっている長州や薩摩との間を往来しているとのことで、このことを聞いて薩摩の小松帯刀や西郷吉之助(西郷隆盛)などもみんな大笑いして、幕府の討ち手がかえってあわて者だったと話しあった。この時、うれしいことに西郷吉之助(薩摩の第一人者で、当時国中ですでに鬼神と言われている人)が伏見の薩摩屋敷より心配してくれて自ら鉄砲を持って来てくれようとしたことです。ですが、周りに押さえられて結局京都留守居役の吉井幸輔が馬で60人くらいの武士を引き連れてくれました。この時は伏見奉行も吉井らを打ち取れなどと言っていたが、大乱に及ぶとのことでそのままになりました。実に威勢のいいことでした。私は、これからこの傷は60日程度でよくなりました。左の親指は元のように、人差し指は思うようには動かないけど外見的には問題ない。右の親指は一番よく治った。右の中指の第一関節も少し怪我したがすぐに治った。

一、7月頃蒸気船の桜島丸(海援隊名ではユニオン号)という船を持って、薩摩から長州へ使者に行き、そのまま長州の船で戦争したが状況は良かった。一、ですが、実際の戦争はただの話とは全然違うもの。一度実戦して実際に見ればこそ戦争の話が出来るというもの。

一、小倉藩の蒸気船と肥後藩の蒸気船、それに幕府の軍艦もあって、出たり引っ込んだりしている。なぜ、味方を援護しにこないのかわからない。このようなことが、二度ほどおきて、二度目に打って出た時に帆船のいかりを下ろして戦う。また、桜島丸(海援隊名ではユニオン号)という蒸気船があり私が船将です。長州藩の帆船は20発程砲弾が当たった。小倉藩と長州藩の船は30発程砲弾が当たり、この砲弾は24ポンド砲以下の砲弾です。その砲弾がいかりにあたってしまい、いかりが切れて流された。なので、いかりを交換してまたいかりを下ろした。オテントサマ号という蒸気船もあって、この船将は高杉晋作です。長州藩の諸隊は小船で馬関海峡を渡り陸で戦いをした。銃の音がゴマをいるような音に聞こえた。この山から船の戦いを助けてモルチール砲で砲撃すること数十発。快く敵の上に落ちて気分がいい。7月18日は小倉藩から長府を攻めると聞いたので、逆に17日の夜明け前にこちら側から攻めた。分捕ったものは火薬や長槍70本、旧式の大砲30門くらいです。7月から戦争が終わらなかったが、とうとう10月4日に長州が小倉を攻め取り、今後長州に敵対しないとこを約した。そして、土地を検知したところ6万石ほどあった。この戦争で長州では、50人ほどが戦死し、敵味方合わせてもおびただしい人間が死にました。先に話した高杉晋作は本陣から旗をなびかせるよう下知し、薩摩の使者村田新八を気をつけながら談笑していた。敵の中の肥後藩の兵は強く、晋作は酒樽などをかきか集めてこれを開き、みんなに飲ませたりしながら戦い、とうとう敵を打ち破り肥後藩の陣地の旗印を分捕った。私は戦場というところは、よっぽど死人が多く出るものと思っていたが、10人程度が戦死するような戦でもよっぽどの戦が出来る。

一、水通三丁目(土佐)にいた上田宗虎(上田宗児)は、池内蔵太と一緒に大和で天誅組にいたが、今は長州藩で南奇隊(第二奇兵隊)の参謀として芸州口で戦っている。しかし、幕府軍の台場を攻めたりしているが中々攻めきれない。上田は士卒に指示し、砲台の外から上り砲台の中へ飛び入り、その中で敵に向かって何度か発砲していたが、幕府側の大砲隊長と行きあい刀を抜く間もなく組合った。敵方は後に続く兵はなく、宗虎側には銃卒が何人か来てゲベール銃にて撃ち殺そうとしたが敵は倒れ際に宗虎の腕を打ち抜いた。宗虎は敵を追い払い台場を乗っ取り、自身は片腕を失ったが、それで高名になり中々華々しいこととみんな羨ましがっている。このことについて、宗虎の親類に話してあげればさぞ喜んでくれることでしょう。

一、おやべどの(姪の春猪)の養子はどのように暮らしてますか?とても心配しています。おやべには早くお腹が大きくなって命を授かり、男の子が生まれたらいいなと思ってる。

一、おやべどのの養子はどのような武士かな?少々申し聞かせますね。私もこの頃は色々と見聞きしていますが、武士だけの事においては日本中において特別で、別段恥いることなくむしろ喜んでもらいたい。養子を取れば少しは武士道においてのお考え方がわかると思います。

一、養子に申し聞かせることは今、土佐において流行りの長い刀を持って色々な人と喧嘩したり、または、昔話の宮本武蔵の試合などというのは現在では非常によくない。実際に軍隊を指揮するような人は銃などは持たないから随分ときらびやかだ。長剣を持つのもいいけど、手に銃を持つような人は実は刀も不要で、この一尺、一寸・二寸の刀に四・五寸くらいの短刀があればよい。戦場において、退いたり、押し出したり、または突撃するような時は、刀が得意な人は銃を捨てるものなので、ついには総人数分の銃がなくなる。たとえ馬廻り(馬に乗る人)でも銃を持つ者は刀などは別に必要はないよ。戦場と言っても、普段考えるような程は忙しくはない。たとえ、敵がすぐ鼻先へきても、少し銃の心得があれば弾は込められるものです。

一、池内蔵太いわく、いつの戦でも敵との距離が30・50間くらいの時で銃の音が小さい時は必ず地面へ伏せるべきだと。この時、内蔵太は辛抱して立ちながら指揮をしていたのが自慢だという。

一、銃で長い間戦う時は必ずそこに、10人、そこに20人というようにする。30人~40人と、銘々が人の影に集まるようなことは、戦に慣れぬ者がすることで、常に死人が多く出て戦に負けることになる。強い者はこのようにはならないものです。先年の長州での戦いでイギリスは、船から上陸するとばらばらと散開し、4間に何人というように立ち並んでいた。

一、当時、天下の人物はというと徳川家では大久保一翁、勝海舟。越前藩では三岡八郎(のちの由利公正)、長谷部甚平。肥後藩では横井小楠薩摩では小松帯刀(この人は、薩摩藩の家老で海軍大将です)西郷隆盛(この人は、国内軍事、外交を一手にあずかる人)長州では、桂小五郎。(国家の進退を決める人で当時は木戸寛次郎という名前)高杉晋作。(この人は軍事を預かる人で、下関で小倉城を落した総大将で当時は谷潜蔵という名前)

一、私はただいま西洋船を購入したり、または失ったりして、元より諸国の同士や水夫を集めて、幸いにも薩摩の小松帯刀、西郷吉之助などがどれだけ出来るか出来るところまでやってみなさい、などと言ってくれるのでまことに良い具合です。どうぞ昔の鼻たれ小僧とお笑いください。

一、とても哀れなのではあの池内蔵太のことです。9度戦場に出て、いつも人数を率いて戦い、一度も弾丸に当たらずにいたのが、私たち海援隊のユニオン号という西洋船に乗って、遭難し、潮合崎(長崎県)で5月2の未明に死にました。人間の一生とは本当に夢のごとしだと思います。杉山(内蔵太の母方の実家)へも伝えて下さい。元より、この遭難した場所の丘に石碑を建てました。高泉(変名)、または黒木半兵衛(鳥取藩士)という千葉道場の同門は真剣勝負でも平素の稽古と変わらずこれには驚いた。

一、何とぞ去年父の命日に、父をしのんで読んだ皆さまの歌などをを送って下さい。

12月4日長崎本はかた町小曽根英四郎方にて記すこの宿は8月から定宿として滞在しております。

坂本龍馬の手紙139通(現代翻訳文)一覧

坂本八平(父)宛(最古の手紙)
相良屋源之助 宛
坂本乙女 宛
住谷寅之助・大胡聿蔵 宛
清井権二郎 宛
平井かほ 宛(龍馬初恋の人への手紙)
田中良助 宛(借金借用の手紙)
坂本乙女 宛(脱藩後初の手紙)
坂本乙女 宛(エヘンの手紙その一)
内蔵太の母 宛
坂本乙女 宛(日本の洗濯)
村田巳三郎宛
坂本乙女 宛(姉乙女に千葉佐那を紹介)
川原塚茂太郎 宛(坂本家の養子縁組依頼)
坂本乙女・春猪 宛(天誅組の蜂起失敗をあわれむ)
坂本乙女 宛
勝海舟 宛(黒龍丸のこと)
渋谷彦介 宛
池内蔵太宛
坂本乙女 宛
坂本権平・乙女・おやべ(春猪) 宛(桂小五郎なるものあり)
乙女・おやべ(春猪) 宛
池内蔵太家族 宛
坂本乙女 宛
坂本乙女 宛
池内蔵太 宛
印藤聿 宛
印藤聿 宛
岩下佐次右衛門・吉井友実 宛
印藤聿 宛
池内蔵太家族 宛
印藤聿 宛
木戸孝允 宛
木戸孝允 宛
高松太郎 宛
幕府要人 宛
佐井虎次郎 宛
お龍 宛
品川省吾 宛
坂本乙女 宛
桂小五郎 宛
桂小五郎 宛
三吉慎蔵 宛
森玄道・伊藤助太夫 宛
森玄道・伊藤助太夫 宛
三吉慎蔵 宛
渡辺昇 宛
吉井友実 宛
坂本春猪 宛
溝渕広之丞 宛
溝渕広之丞 宛
寺田屋お登勢 宛
坂本権平・一同 宛
坂本権平 宛
坂本乙女 宛
桂小五郎 宛
伊藤助太夫 宛
桂小五郎 宛
久保松太郎 宛
伊藤助太夫 宛
春猪(姪) 宛
坂本乙女(姉) 宛
お登勢 宛
お登勢 宛
桂小五郎 宛
河田佐久馬 宛
三吉慎蔵 宛
伊藤助太夫 宛
三吉慎蔵 宛
伊藤助太夫 宛
印藤聿 宛
三吉慎蔵 宛
坂本春猪(姪) 宛
三吉慎蔵 宛
伊藤助大夫 宛
坂本乙女(姉) 宛
坂本乙女(姉) 宛
お登勢 宛
菅野覚兵衛・高松太郎 宛
三吉慎蔵 宛
伊藤助太夫 宛
伊藤助太夫 宛
三吉慎蔵 宛
長岡謙吉 宛
寺田屋伊助 宛
三吉慎蔵 宛
伊藤助太夫 宛
高柳楠之助 宛
高柳楠之助 宛
お龍(妻) 宛
伊藤助太夫 宛
伊藤助太夫 宛
伊藤助太夫 宛
小谷耕蔵・渡辺剛八 宛
伊藤助太夫 宛
桂小五郎 宛
乙女・おやべ(姉 姪) 宛
坂本権平(兄) 宛
望月清平 宛
高松太郎(甥) 宛
お登勢 宛
長岡謙吉 宛
坂本権平(兄) 宛
三吉慎蔵 宛
陸奥宗光 宛
岡内俊太郎 宛
岡内俊太郎 宛
岡内俊太郎 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
安岡金馬 宛
佐佐木高行 宛
佐佐木高行 宛
長崎奉行 宛
陸奥宗光 宛
佐佐木高行 宛
桂小五郎 宛
渡辺弥久馬 宛
本山只一郎 宛
坂本権平(兄) 宛
後藤象二郎 宛
後藤象二郎 宛
後藤象二郎 宛
望月清平 宛
陸奥宗光 宛
岡本健三郎 宛
陸奥宗光 宛
林謙三 宛
順助(高松太郎変名) 宛
林謙三 宛
陸奥宗光 宛
坂本清次郎(坂本家養子) 宛

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