鯰江城跡(東近江市):観音寺城が落ちてからの五年と、六角父子を迎えた在地の城

鯰江城/アクセス・場所・地図 織田信長の上洛戦で敗れた六角義賢・義治父子を迎え入れた鯰江貞景の鯰江城

鯰江城(なまずえじょう)は、近江の東部にあった平山城です。観音寺城が織田信長に落とされたのち、六角義賢・義治の父子を迎え入れ、五年にわたって信長への抵抗を支えました。落城したのは天正元年(一五七三)、柴田勝家らの攻撃によります。城跡は住宅地となり、土塁の一部と石碑が残るのみです。

この記事のポイント
  • 愛知川ぞいの低い丘に築かれた、六角氏配下の在地の城
  • 観音寺城の落城後も、六角父子はここを拠点に抵抗を続けた
  • 信長の近江平定は一度の合戦ではなく、五年かけた掃討だった
  • 城跡は宅地となり、石碑と土塁の一部が残る

城跡を示す木の看板

木の板に「鯰江城趾」と記された看板。竹やぶを背に立ち、案内がなければ通りすぎてしまう場所にある。

目次

愛知川ぞいの小さな城

鯰江は、鈴鹿の山から流れ出る愛知川の流域にあります。琵琶湖の東岸へ抜ける道と、伊勢へ向かう道が近くを通り、水も得やすい土地です。城は低い丘を使った平山城で、堀と土塁で囲まれていました。規模は大きくありませんが、街道を見張るには十分な位置にあります。

城主の鯰江氏は、この地域に根を張った武士です。南近江の守護であった六角氏に属し、その配下として勢力を保っていました。近江には、こうした在地の武士の城が無数にあります。鯰江城もそのひとつにすぎませんでした—観音寺城が落ちるまでは。

石碑と説明板

石柱と説明板、そのまわりに並ぶ石仏。城跡であることを伝えるのは、この一角だけになっている。

観音寺城が落ちたあとの五年

▽ よく語られる話
信長の上洛戦で観音寺城が落ち、六角氏はそこで滅んだ。近江はすぐに信長のものになった。
▼ 史実ではこうです
観音寺城が落ちても、六角義賢・義治の父子は生きのびています。甲賀の山中に潜み、在地の武士に迎えられて拠点を移しながら、抵抗を続けました。鯰江城はその拠点のひとつです。父子は浅井・朝倉や一向一揆と連絡を取り、街道を脅かし、信長の背後を突く動きをやめませんでした。鯰江城が柴田勝家らに攻められて落ちるのは、観音寺城の落城から五年後のことです。近江の平定は一度の合戦で決まったのではなく、五年をかけた根気のいる掃討戦でした。信長の快進撃という印象の裏に、この時間があります。

この五年間、信長は横山城や虎御前山城に兵を置いて浅井氏と対峙し、同時に南近江の掃討にも兵を割いています。二つの方面を同時に抱えたまま、京へも兵を出す。近江が完全に落ち着くのは、浅井氏の滅亡と同じ年でした。

落城と、鯰江氏のその後

天正元年(一五七三)九月、柴田勝家らの軍が鯰江城を攻め、城は落ちました。この年、浅井氏の小谷城も落ち、朝倉氏も滅びています。近江から反信長の拠点が消えた年です。六角父子はその後も行方を変えながら生き、義治は豊臣の世まで生きたと伝えられます。

城主だった鯰江氏も滅びてはいません。貞景の子は豊臣秀吉に仕え、大坂に屋敷を与えられました。その屋敷のあった一帯が、今も鯰江の地名として残っていると伝えられます。城は失われても、名が別の土地に移って残る—こういう続き方もあります。

在地の城が支えたもの

没落した大名が生きのびられるかどうかは、迎え入れる家があるかどうかで決まります。六角父子が五年も抵抗を続けられたのは、鯰江氏のように主家を見捨てなかった在地の武士がいたからです。城そのものは小さくても、そこに人と兵糧があれば、拠点として働きます。

逆に言えば、信長が近江を平定するには、こうした小さな城を一つずつ潰していくしかありませんでした。大きな城を落とせば終わりではない。近江の掃討に五年かかったのは、この層の厚さのためです。城跡に立つと、石碑一本ぶんの土地が、当時どれだけの意味を持っていたかを考えさせられます。

草むらに立つ城址の石柱

草に埋もれるように立つ城址の石柱。足もとの石積みだけが、ここが城であったことを伝えている。

鯰江城跡の訪ね方

城跡は東近江市の鯰江町にあり、近江鉄道の八日市駅から車で十五分ほどです。住宅と竹やぶのあいだに石碑と看板があり、土塁の一部が残っています。遺構は少ないので、観音寺城や箕作城とあわせて、六角氏の城をたどる行程のなかで訪ねるのがよいところです。

所在地:〒527-0172 滋賀県東近江市鯰江町1310

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