お国は実在したのか|久間田琳加が演じる『真田十勇士』九度山の娘 ─ 真田紐を売り歩いた伝承、九度山の真田家の女性たち、出雲阿国とくノ一

九度山の村の道で、色とりどりの紐を売り歩く娘のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • ドラマ『真田十勇士』で久間田琳加さんが演じるお国は、九度山の娘という設定の人物です。確かな史料にも、十勇士を広めた講談にも、九度山のお国という娘は見当たらず、ドラマのために作られた人物と考えられます
  • ただ、お国の役回りには史実の手がかりがあります。九度山の真田家が紐を作り、それを売り歩いて暮らしの足しにしたという「真田紐」の言い伝えです
  • 九度山の真田家には、信繁の妻の竹林院や娘たちなど女性も多く暮らしていました。大助や大八、娘の阿梅らは九度山で生まれ育ったとされます
  • 「お国」という名は、同じころ京都で「かぶき踊り」を始めた出雲阿国を思わせます。戦国から江戸のはじめに、よく見られた女性の名前でもありました
  • お国は佐助に心を寄せながら「ある秘密」を抱える人物とされます。女の忍び「くノ一」を思い浮かべる人もいそうですが、くノ一の多くは後の時代の物語が作ったイメージです

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、冒頭で野武士に襲われていた娘・お国(久間田琳加さん)を、猿飛佐助(岩本照さん)が助ける場面がありました。佐助は「東国一の空飛ぶ忍」と名のり、お国はのちに九度山で十勇士が作った真田紐を売り歩き、見事に売り切ります。お国は実在した人物なのでしょうか。この記事では、お国のモデルになりそうな史実や言い伝えを手がかりに、九度山の娘・お国の正体を考えます。

目次

お国は実在したのか

結論からいうと、九度山にお国という娘がいたことを示す確かな史料はありません。また、大正時代の立川文庫などで広まった十勇士の物語でも、お国という娘はおなじみの登場人物ではありません(真田十勇士とは)。ドラマの公式の紹介でも、お国は「九度山の娘」で、佐助に恋心を抱きながら秘密を抱える人物とされていて、物語のために作られたオリジナルの人物と考えるのがよいでしょう(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

とはいえ、お国の役回りがまったくの空想というわけではありません。九度山の村人と真田家の関わり、紐を売り歩いた言い伝え、そして九度山で暮らした真田家の女性たち ─ お国の姿には、九度山にまつわる史実や伝承がいくつも重ねられているように見えます。

真田紐を売り歩いた ─ お国の役回りの手がかり

ドラマのお国は、十勇士が内職で作った真田紐を売り歩き、すべて売り切りました。九度山には、真田父子が暮らしの足しにするため、平たく丈夫な紐を作らせ、家臣たちがそれを売り歩いたという言い伝えがあります。この紐が「真田紐」と呼ばれるようになったというのです。由来には別の説もあり、言い伝えのとおりだったとは言い切れませんが、九度山と紐を結びつける話は昔から語られてきました(真田紐とは)。

九度山の村の道で、色とりどりの紐を売り歩く娘のイメージ(イラスト)
九度山の村で紐を売り歩く娘(イメージ)

九度山の真田家の暮らしが苦しかったのは史実です。信繁は兄の信之や縁者に、お金や品物を送ってほしいと頼む手紙を何通も書いています(九度山とは)。ドラマでは、お国が売った紐の銭を幸村が村人たちに分け与えていましたが、流人の真田家と村人が助け合って暮らしていたという描き方は、九度山の言い伝えの雰囲気をよくとらえているといえます。

九度山で暮らした真田家の女性たち

九度山の真田屋敷には、男たちだけでなく多くの女性も暮らしていました。信繁の正室は、関ヶ原で西軍として戦った大谷吉継の娘で、のちに竹林院と呼ばれる女性です。九度山まで夫に付き従い、大助をはじめとする子どもたちを育てました。信繁には側室もいて、その中には九度山まで付き従った家臣・高梨内記の娘もいたとされます(真田十勇士は誰に仕えたのか)。

信繁の子どもたちの多くは、九度山で生まれたり育ったりしました。嫡男の大助、のちに仙台の片倉家に引き取られる次男の大八、片倉重長の妻となる娘の阿梅らです。大坂の陣のあと、阿梅や大八は伊達家の重臣・片倉家のもとで育てられ、真田の血は仙台で受け継がれていきました(真田一族の歴史)。ドラマのお国は村の娘という設定ですが、九度山にはこうした真田家の娘たちが確かに暮らしていたのです。

人物 九度山とのかかわり
竹林院 信繁の正室。大谷吉継の娘。九度山に付き従い、子どもたちを育てる
高梨内記の娘 信繁の側室とされる。父の内記は九度山まで付き従った家臣
阿梅 信繁の娘。九度山で育ち、大坂の陣のあと片倉重長の妻となる
大助・大八 信繁の息子たち。大助は大坂城で秀頼に殉じ、大八は仙台の片倉家に引き取られる
お国(ドラマ) 九度山の村の娘。真田紐を売り歩き、佐助に心を寄せる。史料には見えない人物

「お国」という名前 ─ 出雲阿国との重なり

「お国」と聞いて思い出す人が多いのが、同じ時代に生きた出雲阿国です。出雲大社の巫女を名のった阿国は、慶長8年(1603)ごろ京都で「かぶき踊り」を演じて大評判となり、のちの歌舞伎のもとを作ったとされます。信繁が九度山に流されていたまさにそのころ、京都では阿国のかぶき踊りが人びとを熱狂させていたわけです。

もっとも、「国」は当時の女性によく見られた名前で、ドラマのお国が阿国を下敷きにしているとは限りません。それでも、旅をしながら芸を見せた阿国と、村を歩いて紐を売るお国には、各地を渡り歩く庶民の女性という共通点もあります。ドラマの作り手がどこまで意識したのかはわかりませんが、慶長の時代らしい名前といえるでしょう。

お国の「秘密」とくノ一

ドラマの公式の紹介では、お国は「ある秘密」を抱える人物とされています。忍びの物語で秘密を抱える娘というと、女の忍び「くノ一」を思い浮かべる人もいるかもしれません。「くノ一」という言葉は、「女」という字を「く」「ノ」「一」に分けたものといわれ、江戸時代前期にまとめられた忍術書『万川集海』には「くノ一の術」として、女性を使って敵の内情を探る方法が記されています。

ただし、ここでいうくノ一の術は、忍びが女性を使って情報を集める方法のことで、女性自身が手裏剣を投げて戦う「女忍者」とは意味が違います。黒装束で戦うくノ一のイメージは、昭和の小説や映画、漫画の中で広まったものです。お国の秘密が何なのかは、これからの放送で明かされていくはずです(猿飛佐助とは)。

▽ よく語られる話
戦国時代には「くノ一」と呼ばれる女忍者がいて、男の忍びと同じように武器を使って戦っていた。
▼ 史実ではこうです
江戸時代の忍術書『万川集海』に出てくる「くノ一の術」は、女性を屋敷などに送り込んで内情を探らせる方法のことで、女性が武器を持って戦う話ではありません。戦う女忍者としてのくノ一は、昭和の小説や映画、漫画で広まったイメージです。戦国時代に女性が情報集めに関わることはあったと考えられますが、名前の残る「くノ一」はほとんど知られていません。

ドラマ『真田十勇士』のお国と佐助

第1話のお国は、野武士に襲われたところを佐助に助けられ、佐助の「東国一の空飛ぶ忍」という名のりを聞くことになりました。そのあと、九度山では十勇士の作った真田紐を売り歩いて売り切り、幸村がその銭を村人に分け与えています。主を持たずに生きてきた佐助と、九度山で真田家を支える娘 ─ 二人の出会いは、佐助が九度山の人びととつながっていく入口として描かれているようです。

史実の九度山にお国はいませんでしたが、紐を売り歩いた言い伝えや、九度山で育った真田家の娘たち、同じ時代に生きた出雲阿国など、お国の姿には慶長の九度山をしのばせる要素が重ねられています。お国の秘密が何なのか、そして佐助との関係がどうなっていくのかは、九度山脱出に向かう第2話以降の見どころの一つになりそうです(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

よくある疑問

Q. 『真田十勇士』のお国は実在の人物ですか?
A. 九度山にお国という娘がいたことを示す確かな史料はなく、ドラマのオリジナルの人物と考えられます。久間田琳加さんが演じています。

Q. お国のモデルはいますか?
A. はっきりしたモデルは知られていません。ただ、九度山の真田家が紐を作って売り歩いたという真田紐の言い伝えや、同じ時代に京都でかぶき踊りを始めた出雲阿国など、重なる要素はあります。

Q. 九度山の真田家にはどんな女性がいましたか?
A. 信繁の正室で大谷吉継の娘の竹林院、側室とされる高梨内記の娘、そして阿梅をはじめとする信繁の娘たちなどが九度山で暮らしていました。

Q. くノ一は実在したのですか?
A. 江戸時代の忍術書『万川集海』に「くノ一の術」が出てきますが、女性を使って内情を探る方法のことで、戦う女忍者という意味ではありません。戦うくノ一のイメージは昭和の小説や映画で広まったものです。

まとめ

ドラマ『真田十勇士』のお国は、史料にも講談にも見当たらない、ドラマのための人物と考えられます。それでも、九度山の真田家が紐を売り歩いたという言い伝え、九度山で暮らした竹林院や娘たち、同じ時代の出雲阿国など、お国の役回りには慶長の九度山にまつわる史実や伝承が重なっています。お国が抱える「秘密」が明かされるとき、九度山の物語はまた新しい顔を見せるのかもしれません。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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