墨俣一夜城はどう築かれたのか?秀吉と川並衆の知略を図解とイラストで解説

加工した木材を筏に組んで川を下り墨俣へ運ぶ人びとのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 墨俣一夜城は、美濃攻めのさなかに木下藤吉郎(秀吉)が敵地の墨俣にわずかな日数で城を築いた、と伝えられる話です
  • 伝承が描く「知略」の中心は、木材をあらかじめ上流で加工し、筏にして川で運び、現地では組み立てるだけにした、という段取りでした
  • その筏を操り、人手を集めたのが、木曽川の土豪たち「川並衆」で、蜂須賀正勝や前野長康の名が挙げられます
  • ただし、この話のくわしい中身は江戸時代の読み物や『武功夜話』に見えるもので、同時代の『信長公記』には秀吉が墨俣に城を築いた記録はありません
  • 「一夜で建った城」は誇張ですが、川を使って資材を運び、短い期間で砦を形にするという発想そのものは、戦国の築城として理にかなっています

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第7回「決死の築城作戦」と第8回「墨俣一夜城」で描かれたのが、この墨俣一夜城の話です。美濃の斎藤氏の目の前に、一夜のうちに城が現れた。豊臣秀吉の出世物語のなかでも、とりわけ人気のある場面のひとつでしょう。では、伝承のなかの秀吉は、どんな工夫でそれをやってのけたことになっているのでしょうか。この記事では、伝えられている築城の段取りを、図とイラストで一つずつ分解して見ていきます。そのうえで、この話がどこまで史実と言えるのかも確かめます。

目次

墨俣とはどんな場所だったのか

墨俣(すのまた、古くは洲股とも書きます)は、いまの岐阜県大垣市墨俣町のあたりです。長良川の流れに沿い、いくつもの川が寄り集まる低い土地で、尾張と美濃の境に近い交通の要所でした。北東へ十数キロ進めば、斎藤龍興の本拠・稲葉山城があります。尾張から美濃へ攻め込む織田方にとって、墨俣に足がかりを持てるかどうかは、美濃攻めの成否を左右する問題でした。

逆にいえば、墨俣は斎藤方の目と鼻の先です。ここで城を築こうとすれば、工事の途中で必ず斎藤方の攻撃を受けます。資材を運び、人を集め、柵を巡らせ、建物を建てるには時間がかかる。そのあいだ敵の前で無防備な状態が続く、というのが、敵地に城を築くときの最大の難しさでした。墨俣という土地そのものについては 墨俣城(墨俣一夜城) でくわしく紹介しています。

よく知られた「墨俣一夜城」のあらすじ

江戸時代に広まった物語では、話はこう進みます。信長は墨俣に城を築こうとし、まず佐久間信盛に、ついで柴田勝家に命じますが、どちらも斎藤方の攻撃にあって失敗してしまう。そこで木下藤吉郎が名乗り出て、木曽川の川並衆を味方につけ、わずかな日数で城を築き上げた。驚いた斎藤方は攻めあぐね、墨俣城は美濃攻めの拠点となった、というものです。

佐久間や柴田の失敗の場面は、江戸時代の読み物『絵本太閤記』などで描かれたもので、秀吉の手柄を引き立てるための筋立てと考えられます。一方、築城の具体的な段取りをくわしく語るのが、尾張の前野家に伝わったとされる『武功夜話』です。以下では、主にこの伝承に沿って、秀吉の「知略」がどう描かれているかを見ていきましょう。

墨俣の築城の段取りを示す概念図。上流で加工した木材を筏で運び、墨俣で組み立てる
伝承に見える墨俣の築城の段取りの概念図。上流で加工した部材を筏で運び、墨俣では組み立てるだけにした、とされます。

知略その一 ── 現地では「作らない」

伝承の核心は、城を墨俣で一から作らなかった、という点にあります。木を切り、皮をむき、寸法を測って柱や板に加工する作業には、本来、長い時間がかかります。それを敵の目の前でやれば、完成する前に襲われてしまう。そこで、木材の切り出しと加工を、敵の手の届かない上流の山であらかじめ済ませておいた、というのです。

柱や梁、板、柵に使う丸太を、組み立てる場所の寸法に合わせて切りそろえ、どこに使う部材かがわかるように印をつけておく。現地ではそれを順番に組み上げるだけ。いまでいう「プレハブ」の発想です。こうすれば、敵の前に姿をさらす時間を、組み立ての数日間にまで縮めることができます。日本の木造建築は、もともと継手や仕口で部材を組み合わせる造りが基本で、あらかじめ加工した部材を運んで建てることは、寺社の建築などでも行われていました。その技術を、砦づくりに応用したと考えれば、決して荒唐無稽な話ではありません。

知略その二 ── 川を道にする

加工した大量の木材を、どうやって墨俣まで運ぶか。陸路で運べば、荷車や人足の列が目立ち、途中で斎藤方に見つかってしまいます。そこで使われたのが川でした。部材を筏に組み、木曽川や長良川の流れに乗せて下流の墨俣まで流したのです。川を使えば、重い木材を少ない人数で一度にたくさん運べるうえ、夜のうちに動かすこともできます。

ただし、大きな筏を川の流れのなかで操るには、熟練の技が要ります。浅瀬や中州を避け、目的の場所で確実に岸に寄せなければなりません。その役目を担ったのが、木曽川の水運で暮らしを立てていた土豪たち、いわゆる「川並衆」でした。

加工した木材を筏に組み、川並衆が棹で操って川を下るイメージ(イラスト)
加工した木材を筏で運ぶ川並衆のイメージ(イラスト)。重い資材を目立たずに運ぶには、川がいちばんの道でした。

知略その三 ── 川並衆を味方につける

伝承では、藤吉郎は蜂須賀正勝(小六)や前野長康(将右衛門)ら、木曽川流域の土豪たちを味方に引き入れて、この築城を成し遂げたとされます。彼らは川の水運や材木の扱いに通じ、多くの人手を動かせる人びとでした。織田家の正規の家臣ではない土豪たちを、恩賞の約束や人のつながりで動かした点に、身分の低い藤吉郎ならではの強みがあった、という描き方です。

川並衆がどんな人びとで、そのうち誰が大名になったのかは 川並衆とは何者だったのか で、蜂須賀正勝と秀吉の歩みは 蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代 で、前野長康については 前野長康(将右衛門)とは でくわしく紹介しています。

知略その四 ── まず囲い、それから建てる

墨俣に着いた部材は、どんな順番で組み立てられたのでしょうか。伝承や、当時の砦づくりの一般的なやり方から考えると、まず先に柵を巡らせ、堀を掘り、土を盛って、外から攻め込まれない囲いを作ったと考えられます。囲いさえできれば、その内側で櫓や長屋を建てる作業は、敵の攻撃からある程度守られます。

建物よりも先に防御線を作る、という順番が肝心でした。囲いができた時点で、砦は「攻めにくい場所」に変わります。斎藤方が攻め寄せてきても、柵の内側から鉄砲や弓で応戦しながら、残りの工事を進めることができたわけです。「一夜で城が建った」と言われるのは、敵の側から見れば、気がついたときにはもう簡単には崩せない囲いができていた、ということだったのかもしれません。

段取り 伝承に見える工夫 狙い
① 加工 上流の山で木を切り、柱・板・柵を寸法どおりに加工 敵の前での作業時間を減らす
② 運搬 部材を筏に組み、川並衆が川で下流へ運ぶ 目立たず、大量に、夜でも運べる
③ 囲い 着いたらまず柵・堀・土塁で囲む 工事中の攻撃を防ぐ
④ 組立 囲いの内側で櫓・長屋を一気に組み上げる 拠点としての形を短時間で整える
⑤ 防戦 鉄砲・弓で斎藤方の妨害を退ける 完成まで持ちこたえる

本当にあった話なのか

ここまで見てきた段取りは、よくできた話です。しかし、この話を史実と言い切ることはできません。織田信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』には、秀吉が墨俣に城を築いたという記事がないからです。『信長公記』に見えるのは、永禄4年(1561)ごろに信長自身が洲股に陣を置き、砦を修築させたという記事です。

一方、築城の段取りや川並衆の活躍をくわしく伝える『武功夜話』は、昭和になって世に出た書物で、江戸時代以降に書き足された部分が多いとみられ、史料としての信頼性には強い疑問が持たれています。また、墨俣一夜城の話が永禄9年(1566)のこととされるのも、この書物に拠るところが大きいのです。こうしたことから、秀吉が墨俣に城を築いたこと自体を疑問視する研究者も少なくありません。秀吉の若いころの記録がなぜ乏しいのかは 豊臣兄弟!第1〜8回 史実解説 でも取り上げています。

▽ よく語られる話
佐久間信盛や柴田勝家が失敗した墨俣の築城を、木下藤吉郎が川並衆の力を借りて一夜で成し遂げ、出世の糸口をつかんだ。
▼ 史実ではこうです
同時代の『信長公記』には、秀吉が墨俣に城を築いたという記録はありません。佐久間・柴田の失敗は江戸時代の読み物の筋立てで、築城の段取りや川並衆の活躍は、信頼性に疑問のある『武功夜話』に見える話です。「一夜」で城が建ったというのは誇張と考えるべきでしょう。ただ、墨俣が美濃攻めの要地だったこと、川を使って資材を運ぶ発想が戦国の築城として合理的だったことは確かです。

それでも、この伝承が描く段取りには学ぶところがあります。上流で加工し、川で運び、囲いを先に作って中を組み立てる。敵の前にいる時間を最小にする、という考え方は、のちの秀吉が得意とした戦い方にも通じています。備中高松城では十二日ほどで長い堤を築き、太田城でも短期間で堤を巡らせました。大量の資材と人手を短い期間に一点へ集める力こそが、秀吉の戦の強みでした。墨俣一夜城は、その秀吉らしさを、のちの人びとが若いころの物語として描いたもの、と受け取るのがよいのかもしれません。秀吉の水攻めについては なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか と なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか で紹介しています。

墨俣一夜城のイメージ(イラスト)
墨俣一夜城のイメージ(イラスト)。伝承のなかの墨俣城は、柵と櫓、長屋からなる砦だったと考えられます。

弟・小一郎は墨俣にいたのか

大河ドラマでは、兄の無謀な計画を支える小一郎の姿が描かれます。しかし、墨俣築城の話のなかで小一郎(のちの秀長)の名がはっきり出てくるわけではありません。そもそも墨俣の話自体が確かではないうえ、秀長が確かな記録に現れるのはもっと後の時代です。兄弟が力を合わせて砦を築いたという場面は、ドラマならではの描き方と考えておくとよいでしょう。秀長が織田家でどんな立場にいたのかは 豊臣秀長は織田信長の直臣だったのか で取り上げています。

墨俣一夜城のいま

大垣市墨俣町には、「墨俣一夜城」と呼ばれる城の形をした建物が建っています。平成3年(1991)に建てられた歴史資料館で、天守のような外観をしていますが、当時の墨俣にこのような天守があったわけではありません。伝承のなかの墨俣城は、柵と櫓、長屋からなる砦でした。資料館のまわりは公園として整えられ、川沿いの景色とあわせて、かつて美濃と尾張の境であったこの土地の雰囲気を感じることができます。開館時間や駐車場は、大垣市の観光案内で確かめてから出かけると安心です。

よくある疑問

Q. 墨俣一夜城は本当に一夜で建ったのですか?
A. 一夜で建ったというのは誇張です。伝承でも数日がかりとされ、そもそも秀吉が墨俣に城を築いたこと自体が、同時代の記録では確かめられていません。

Q. 墨俣一夜城はどうやって短期間で築いたとされるのですか?
A. 上流で木材を加工して印をつけ、筏で川を下って運び、墨俣では先に柵や堀で囲ってから櫓や長屋を組み立てた、と伝えられています。

Q. 川並衆とは誰ですか?
A. 木曽川流域で水運などに携わった土豪たちのことで、蜂須賀正勝や前野長康らの名が挙げられます。ただし、この呼び名や活躍の多くは『武功夜話』に拠っています。

Q. いま墨俣にある城は当時のものですか?
A. いいえ。平成3年に建てられた歴史資料館で、当時の墨俣に天守があったわけではありません。

まとめ

墨俣一夜城の伝承が描く秀吉の知略は、上流で部材を加工し、川並衆の筏で運び、現地では囲いを先に作って一気に組み上げる、という段取りでした。敵の前にいる時間を最小にするこの発想は、戦国の築城として理にかなっています。ただし、この話の中身は江戸時代の読み物や信頼性に疑問のある『武功夜話』に拠るもので、同時代の記録からは確かめられません。史実かどうかとは別に、資材と人手を短い期間に集める秀吉の強みを象徴する物語として味わうのがよいでしょう。大河ドラマの全話の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 でたどることができます。

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