金ヶ崎の退き口とは:信長最大の危機の全容と、しんがりを務めた秀吉・光秀・池田勝正、朽木越えの道のり

夕暮れの山道を、追撃を背にしんがりとして退く武将と兵たちのイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)は、元亀元年(1570)4月、越前の朝倉攻めの最中に浅井長政が背いたため、織田信長が敦賀から京へ逃げ帰った撤退戦です
  • 信長は金ヶ崎城に後衛の部隊を残し、自らは若狭から朽木谷を越えて、4月30日に京へ戻りました
  • しんがり(殿)は「木下藤吉郎(秀吉)がひとりで志願した」と語られがちですが、同時代の書状には池田勝正・明智光秀・木下秀吉の三人の名が見え、複数の部隊で務めたと考えられます
  • お市の方が「両端を縛った小豆袋」で危機を知らせた話や、徳川家康がしんがりに加わった話は、後世の創作とみられます
  • この撤退で秀吉は信長の信頼を得て、二か月後の姉川の戦い、三年後の小谷城攻めへとつながっていきます

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第14回「絶体絶命!」で描かれたのが、この金ヶ崎の退き口です。織田信長の生涯で最大の危機のひとつに数えられ、のちの天下人・羽柴秀吉が名を上げた戦いとしても知られています。ただし、よく知られた「藤吉郎がひとりで殿を買って出た」という話は、史料をたどるとかなり姿が変わります。この記事では、信長が越前へ攻め込んだ理由から、浅井長政の離反、しんがりを務めた武将たち、そして朽木越えで京へ戻るまでを、日付と地図に沿ってくわしくたどります。

目次

なぜ信長は越前へ攻め込んだのか

永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した信長は、諸国の大名に京へ上るよう求めていました。将軍のもとに集まって新しい秩序に従え、という呼びかけです。ところが越前の朝倉義景は、この求めに応じませんでした。朝倉家はかつて義昭をかくまった家でもあり、信長の下につくことをよしとしなかったのです。

元亀元年(1570)4月20日、信長は京を出陣しました。表向きの目的は、若狭の武藤友益を討つことでした。軍勢はおよそ三万とされ、三河の徳川家康も加わっています。一行は琵琶湖の西岸を北へ進み、若狭の熊川を経て、佐柿の国吉城に入りました。国吉城は若狭の粟屋勝久が守る城で、何度も朝倉勢の攻撃をはね返してきた、若狭と越前の境の砦です。ここから先は朝倉の領国でした。若狭の武藤を討つという名目は、実際には朝倉攻めの入り口だったのです。なお、この出陣中の4月23日に、元号が永禄から元亀に改められています。

金ヶ崎の退き口の概略図。京から若狭を経て金ヶ崎へ進んだ道と、朽木越えで京へ戻った撤退路
金ヶ崎の退き口の概略図。灰色が越前への進軍路、赤が信長の撤退路(朽木越え)、青が浅井・朝倉の動きです。

天筒山城と金ヶ崎城 ── 二日で敦賀を押さえた

4月25日、織田軍は越前の敦賀に入り、天筒山城を攻めました。『信長公記』は、この日に討ち取った首を千三百七十余と記しています。山の上の城を力攻めで落とした、激しい戦いでした。翌26日には、天筒山と尾根続きの金ヶ崎城にいた朝倉景恒が城を明け渡し、近くの疋壇城の兵も退きました。わずか二日で、織田軍は越前の玄関口である敦賀を手に入れたことになります。次は木ノ芽峠を越えて、朝倉家の本拠・一乗谷へ攻め込む段取りでした。天筒山城と金ヶ崎城については 天筒山城 と 金ヶ崎城 で紹介しています。

浅井長政の離反 ──「虚説たるべし」と信長は言った

そこへ届いたのが、北近江の浅井長政が朝倉方についた、という知らせでした。長政は信長の妹・お市の方を妻に迎えた義弟です。『信長公記』によれば、信長ははじめ、浅井は縁者であり、北近江一円を任せているのだから不足があるはずがない、きっと根も葉もない話だろう、と信じなかったといいます。しかし同じ知らせが次々に届き、信長もついに事実と認めざるをえなくなりました。

浅井の離反がなぜ致命的だったのかは、地図を見るとよくわかります。織田軍が京へ戻る道の東側は、浅井の領国である北近江です。前に朝倉、後ろに浅井という形になれば、敦賀にいる三万の軍勢は、北と南から挟まれて退路を断たれてしまいます。浅井家が朝倉家と古くから結びついていたこと、そして長政がなぜ義兄を裏切ったのかについては 浅井長政 中編 でくわしく取り上げています。

▽ よく語られる話
お市の方が、両端を縄で縛った小豆の袋を陣中見舞いとして兄に送った。「袋のネズミ」になるという意味だと悟った信長は、すぐに撤退を決めた。
▼ 史実ではこうです
小豆袋の話は江戸時代の軍記物に見える逸話で、同時代の記録にはありません。後世の創作と考えられています。実際に誰がどのように知らせたのかはわかっていません。ただ、明智光秀は出陣当日の4月20日付の書状で、北近江の動きに用心するよう書き残しており、浅井の不穏な気配は、織田方の一部ではすでに警戒されていたようです。

撤退の決断と、しんがりを任された武将たち

信長の決断は早いものでした。全軍で退けば、追ってくる朝倉勢に背後から崩されます。そこで、金ヶ崎城に後衛の部隊を残して追撃を食い止めさせ、そのあいだに本隊を逃がすことにしました。この、退却する軍のいちばん後ろで敵を防ぐ役目が「しんがり(殿)」です。敵の目の前に残るのですから、生きて帰れる保証はありません。

『信長公記』は、このとき信長が「金ヶ崎の城には木下藤吉郎を残し置かれ」と書いています。しんがりといえば秀吉、という話のもとになった記述です。ところが、当時、将軍義昭の側近だった一色藤長が伝え聞いた内容を記した書状(『武家雲箋』所収)には、金ヶ崎に残った武将として、池田勝正・明智光秀・木下秀吉の三人の名が挙がっています。

武将 当時の立場 史料での扱い
池田勝正 摂津池田城の城主で、三千ほどの兵を率いた大名格。三人のうちでいちばん格が高い 『武家雲箋』所収の書状に名が見える
明智光秀 将軍義昭と信長の両方に仕える立場。まだ城主ではない 『武家雲箋』所収の書状に名が見える
木下秀吉 京の政務にも関わる信長の家臣。のちの羽柴秀吉 『信長公記』と『武家雲箋』の両方に名が見える

危うい撤退戦では、複数の部隊が交代しながら少しずつ下がっていくのがふつうです。格から考えれば、主将格は池田勝正で、光秀と秀吉がそれぞれの部隊を率いて加わった、という形が自然でしょう。研究者のあいだでも、三人が協力して務め、そのなかで秀吉が中心的な働きをした、という見方が示されています。秀吉ひとりの手柄話は、のちに天下人となった秀吉の伝記がふくらませていったものと考えられます。

一方、徳川家康がしんがりに加わって秀吉を助けた、という話も広く知られていますが、これを裏づける同時代の史料はありません。家康がこの遠征に参加していたことは確かですが、撤退のときの動きはよくわかっていないのです。

しんがりは何をしたのか ── 若狭の城が退路を支えた

しんがりの部隊は、金ヶ崎城にこもって朝倉勢の出足を止め、本隊が十分に離れたところで城を出て、追撃をかわしながら退きました。具体的な戦いの様子は記録にほとんど残っていませんが、損害については「主だった者は無事だった」とする記録もあれば、「二千人ほどを失った」とする記録もあり、楽な撤退ではなかったことがうかがえます。

見落とされがちなのが、若狭の武士たちの働きです。退路にあたる佐柿の国吉城には粟屋勝久ら若狭の衆がいて、土地の道に詳しい彼らが撤退する軍勢の受け入れと道案内を支えたと考えられています。金ヶ崎から国吉城までは十キロほど。いったんそこまで退けば、朝倉勢もそれ以上は深追いしにくくなります。退き口は、金ヶ崎で踏みとどまった部隊と、その背後で道をつないだ若狭の城との連携で成り立っていたのです。

夕暮れの山道を、追撃を背にしんがりとして退く武将と兵たちのイメージ(イラスト)
しんがりとして退く部隊のイメージ(イラスト)。敵の目の前に残り、本隊が逃げる時間を稼ぐのが殿の役目でした。

朽木越え ── 信長はわずかな供で京へ戻った

本隊を後に任せた信長自身は、ごく少ない供回りだけを連れて、いち早く戦場を離れました。たどったのは、若狭の熊川から近江の朽木谷を抜けて京へ出る山道です。琵琶湖の西岸を通る来た道は、浅井の勢力に近く危険でした。朽木谷を通れば、湖から離れた山あいを南へ抜けることができます。

この道の要にいたのが、朽木谷の領主・朽木元綱でした。元綱がどちらにつくかで、信長の運命は決まります。のちの記録によれば、元綱ははじめ信長を討つことも考えていたものの、信長に同行していた松永久秀が説得して味方につけたと伝えられています。こうして信長は朽木谷を通り抜け、4月30日に京へたどり着きました。出陣からわずか十日、三万の大軍で出ていった信長が、ほとんど身ひとつで戻ってきたことになります。それでも信長は京で平然とふるまい、5月9日には岐阜へ戻って、浅井・朝倉との戦いの準備に取りかかりました。

4月20日 信長、京を出陣。家康も同行、軍勢は約三万
4月23日 元号が元亀に改まる
4月25日 敦賀に入り、天筒山城を攻め落とす
4月26日 金ヶ崎城の朝倉景恒が開城
4月27〜28日ごろ 浅井長政の離反が確かになり、撤退を決める。金ヶ崎城に殿を残す
4月30日 信長、朽木谷を越えて京に戻る
5月9日 信長、岐阜へ向けて京を発つ
6月28日 姉川の戦い

秀吉兄弟は、金ヶ崎で何をしたのか

金ヶ崎の退き口は、秀吉にとって出世の大きな足がかりになりました。江戸時代に書かれた秀吉の伝記『太閤記』などには、無事に戻った秀吉を信長がほめたたえ、黄金を与えたという話が見えます。細かな場面は後世の脚色を含むとしても、退き口のあと秀吉が北近江の最前線である横山城を任され、やがて浅井攻めの中心となっていくのは確かです。危険な役目を果たして生きて戻ったことが、信長の信頼につながったと考えてよいでしょう。

では、弟の小一郎(のちの秀長)はどうだったのでしょうか。兄の部隊にいた可能性は高いものの、金ヶ崎で小一郎が何をしたかを伝える確かな記録はありません。蜂須賀正勝や前野長康が秀吉とともに奮戦したという話は『武功夜話』に見えますが、この書物は史料としての信頼性に疑問が持たれています。ドラマで描かれる兄弟の奮闘は、こうした記録の空白を埋める創作の部分が大きいと考えておくとよいでしょう。秀吉と蜂須賀党の織田家時代の歩みは 蜂須賀正勝と秀吉の織田家時代 にまとめています。

▽ よく語られる話
誰もが尻込みするなか、木下藤吉郎がひとり殿を名乗り出て、わずかな手勢で朝倉の大軍を食い止めた。
▼ 史実ではこうです
『信長公記』は秀吉を金ヶ崎に残したと記しますが、同時代の書状には池田勝正・明智光秀の名も並んでいます。殿は秀吉ひとりではなく、格上の池田勝正を含む複数の部隊で務めたと考えられます。それでも、秀吉が危険な役目を果たして生還し、信長の評価を高めたことは確かで、ここが秀吉の飛躍の出発点になりました。

退き口のあと ── 二か月後の姉川へ

京へ戻った信長は、すぐに反撃に移ります。6月には北近江へ攻め込み、6月28日、姉川で浅井・朝倉の連合軍とぶつかりました。この姉川の戦いのあと、秀吉は浅井の小谷城を見張る横山城に入り、三年にわたって浅井攻めの最前線に立ち続けます。金ヶ崎の退き口は、信長にとっては屈辱の撤退でしたが、秀吉兄弟にとっては北近江での長い戦いの始まりでもありました。その後の流れは 豊臣兄弟!第13〜17回 史実解説 で、浅井家が最後にこもった城は 小谷城跡 で紹介しています。

金ヶ崎城跡を歩く

金ヶ崎城跡は、福井県敦賀市の敦賀湾に突き出た小高い山にあります。ふもとには、南北朝時代にこの城で戦った尊良親王と恒良親王を祀る金崎宮があり、そこから尾根づたいに城跡へ登ることができます。山頂の月見御殿跡からは敦賀湾を見下ろせ、尾根の先には天筒山城跡も続いています。信長がこの海を見ながら越前の奥を目指し、そして引き返していった場所です。訪ねる前に、敦賀市や金崎宮の案内で駐車場や道のようすを確かめておくと安心です。

よくある疑問

Q. 金ヶ崎の退き口の読み方は?
A. 「かねがさきののきくち」と読みます。「退き口」は、戦場から退くこと、またその撤退戦を指す言葉です。「金ヶ崎の戦い」と呼ばれることもあります。

Q. 金ヶ崎の退き口で殿を務めたのは誰ですか?
A. 『信長公記』は木下藤吉郎(秀吉)の名を挙げていますが、同時代の書状には池田勝正・明智光秀・木下秀吉の三人の名が見えます。複数の部隊で務めたと考えるのが自然です。

Q. 徳川家康も殿を務めたのですか?
A. 家康がこの遠征に加わっていたことは確かですが、殿に加わったことを示す同時代の史料はありません。

Q. お市の方の小豆袋の話は本当ですか?
A. 江戸時代の軍記物に見える話で、後世の創作と考えられています。

Q. 信長はどの道を通って京へ戻ったのですか?
A. 若狭の熊川から近江の朽木谷を抜ける山道を通り、4月30日に京へ戻りました。この道を「朽木越え」と呼びます。

まとめ

金ヶ崎の退き口は、敦賀を二日で押さえた信長が、義弟・浅井長政の離反によって一転、挟み撃ちの危機に陥り、朽木越えで京へ逃げ帰った撤退戦です。しんがりは秀吉ひとりの手柄話として語られがちですが、実際には池田勝正・明智光秀・木下秀吉らが金ヶ崎に残り、若狭の国吉城の衆が退路を支えました。それでも、この危うい役目を果たして生きて戻ったことが、秀吉の名を信長の家中に刻み、北近江での三年の戦いへとつながっていきます。大河ドラマの全話の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 でたどることができます。

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