- 稲葉山城乗っ取り事件は、永禄7年(1564)2月、斎藤家の家臣だった竹中半兵衛が、わずか十数人で主君・斎藤龍興の居城を奪った出来事です
- 城に詰めていた弟の病気見舞いを口実に入城し、見舞いの品に見せかけた長持に武具を隠して運び込んだと伝えられます
- 舅の安藤守就も兵を出して加わり、龍興は城を捨てて逃れました。織田信長が何年も攻めあぐねていた城が、内側から一日で落ちたことになります
- 半兵衛は半年から一年ほど城を押さえたのち、城を龍興に返したとされます。信長が「美濃半国と引き換えに城を渡せ」と持ちかけ、半兵衛が断ったという話も伝わります
- 事件そのものはあったと考えられていますが、人数や手口、返した理由の細部は後世の記録に拠るところが大きく、諸説があります
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第9回「竹中半兵衛という男」では、のちに秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛の、若き日の大事件が描かれました。信長が何度攻めても落とせなかった美濃の稲葉山城を、二十歳を過ぎたばかりの半兵衛がわずかな手勢で奪い取り、しかもあっさりと主君に返してしまった。この「稲葉山城乗っ取り事件」は、半兵衛の名を一躍知らしめた出来事です。この記事では、事件の背景から当日の手口、城を返すまでの経緯、そして信長の美濃攻めへの影響までをくわしくたどります。
事件の背景 ── 若い当主・斎藤龍興と美濃の国衆
稲葉山城は、美濃の戦国大名・斎藤家の本拠です。斎藤道三が築き上げた美濃の支配は、子の義龍に引き継がれましたが、義龍は永禄4年(1561)に急死し、まだ十代前半の龍興が跡を継ぎました。若い当主のもとで、家中では一部の側近が力を持ち、古くからの国衆たちとのあいだに溝が生まれていったといわれます。
竹中半兵衛(重治)は、美濃の菩提山城を本拠とする竹中家の当主で、斎藤家に仕える国衆の一人でした。半兵衛の妻は、美濃の有力な国衆で「西美濃三人衆」の一人に数えられる安藤守就の娘です。一方そのころ、尾張の織田信長は、たびたび美濃へ攻め込みながらも、稲葉山城を落とせずにいました。斎藤家は外からは崩れなかったのです。
永禄7年2月 ── 十数人で城を奪う
事件が起きたのは、永禄7年(1564)2月のことです。伝えられるところでは、半兵衛の弟・久作(重矩)が人質として稲葉山城に詰めていました。半兵衛は、この弟が病に倒れたので見舞いに行く、という名目で、家臣十数人を連れて城に入りました。人数は十六人とも十七人とも伝えられます。
一行が運び込んだ長持(衣類や道具を入れて担いで運ぶ大きな箱)には、見舞いの品ではなく、刀や鎧などの武具が隠されていたといいます。城内に入った半兵衛たちは、龍興の側近で、その日城の守りを預かっていた斎藤飛騨守らを討ち取り、城の要所を押さえました。外からは、舅の安藤守就が兵を率いて駆けつけ、城を固めたとされます。不意を突かれた龍興は、稲葉山城を捨てて逃れました。

信長が大軍で何度攻めても落ちなかった山城が、内側からはたった一日で落ちたことになります。稲葉山城は金華山の山頂にあり、外から攻め登るのはきわめて難しい城でした。しかし、城の中に入ってしまえば話は別です。半兵衛は、城の強さではなく、人の出入りという守りの隙を突いたのでした。稲葉山城(のちの岐阜城)のつくりは 岐阜城(稲葉山城) で紹介しています。

なぜ半兵衛は城を奪ったのか
半兵衛がなぜこのような事件を起こしたのかについては、いくつかの説があります。よく知られているのは、政務を顧みない龍興をいさめるため、という説です。龍興が側近ばかりを重んじ、国衆の声に耳を貸さないので、城を奪ってみせることで目を覚まさせようとした、というものです。
もう一つは、龍興の側近たちから受けていた嫌がらせや冷遇への反発だった、という説です。若い半兵衛は、龍興の近くにいる者たちから侮られていたとも伝えられ、その側近を討つことが目的だった、とする見方です。舅の安藤守就が兵を出していることから、単なる一人の家臣の反乱ではなく、斎藤家の家中で力を失いつつあった国衆たちの不満が背景にあった、と考える研究者もいます。どの説も決め手には欠けますが、事件が斎藤家の内側の亀裂から起きたことは確かでしょう。
信長の誘いと、城を返した理由
稲葉山城が半兵衛の手に落ちたと聞いた信長は、この城を手に入れる好機と見たようです。後世の記録には、信長が半兵衛に「美濃の半分を与えるから、城を渡せ」と持ちかけたものの、半兵衛はこれを断った、という話が伝わります。主君の城を奪ったとはいえ、それを敵に売り渡すつもりはない、という半兵衛の筋の通し方を示す話として、よく語られてきました。
そして半兵衛は、半年から一年ほど城を押さえたのち、城を龍興に返したとされます。返した時期や経緯については諸説があります。初めから城を自分のものにするつもりはなく、主君をいさめるという目的を果たしたから返した、という見方がある一方で、城を奪ったものの周囲の国衆の支持が広がらず、持ちこたえられなくなったから返さざるをえなかった、という見方もあります。いずれにしても、半兵衛はその後、斎藤家の政治の表舞台から身を引き、自分の領地に引きこもったと伝えられます。
事件が残したもの ── 揺らいだ斎藤家
城は龍興の手に戻ったものの、この事件は斎藤家に深い傷を残しました。当主が家臣にわずかな手勢で城を奪われ、城を追われたという事実は、家中と周囲の国衆に、斎藤家の求心力の弱さをはっきりと示したからです。その後、美濃の国衆は一人、また一人と織田方に傾いていきます。
永禄10年(1567)、安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全の西美濃三人衆が信長に内応すると、信長はついに稲葉山城を攻め落としました。龍興は伊勢長島へ逃れ、美濃の斎藤家は滅びます。信長は稲葉山城を岐阜城と改め、ここを本拠として天下に乗り出していきました。半兵衛の乗っ取り事件は、三年後の斎藤家の滅亡へとつながる、最初のひび割れだったといえます。
半兵衛のその後 ── 信長、そして秀吉のもとへ
斎藤家が滅んだあと、半兵衛は信長に仕えることになりました。信長の命で秀吉の部隊に付けられ、浅井攻めの調略や、播磨の攻略で働きます。天正7年(1579)、三木城を攻める陣中で病に倒れ、三十六歳で亡くなりました。秀吉が半兵衛を三度訪ねて迎えたという「三顧の礼」の話は、この関係を三国志の故事になぞらえた後世の創作と考えられています。その経緯は 竹中半兵衛と三顧の礼 で、半兵衛の生涯は 竹中半兵衛とは でくわしく紹介しています。また、事件の場面を描いた大河ドラマの回の史実は 豊臣兄弟!第9〜12回 史実解説 にまとめています。
よくある疑問
Q. 竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取ったのはいつですか?
A. 永禄7年(1564)2月とされます。
Q. 何人で城を乗っ取ったのですか?
A. 十六人とも十七人とも伝えられますが、細かな人数は後世の記録に拠るものです。外からは舅の安藤守就が兵を率いて加わったとされます。
Q. なぜ城を龍興に返したのですか?
A. 主君をいさめる目的を果たしたからという説と、周囲の支持が得られず持ちこたえられなかったからという説があり、はっきりしません。
Q. 信長が美濃半国と引き換えに城を求めたのは本当ですか?
A. 後世の記録に見える話で、同時代の記録では確かめられません。
まとめ
稲葉山城乗っ取り事件は、竹中半兵衛が弟の見舞いを口実にわずかな手勢で城に入り、内側から主君・斎藤龍興の居城を奪った出来事です。信長が外から落とせなかった城を、半兵衛は人の出入りという隙を突いて一日で手に入れ、やがて龍興に返しました。人数や手口、返した理由の細部には諸説がありますが、この事件が斎藤家の弱さを周囲に示し、三年後の滅亡へとつながったことは確かです。大河ドラマの全話の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 でたどることができます。

