岡藩/中川家7万石:中川久昭 駿府城への派兵の遅れより謹慎を命じられた岡藩【幕末維新写真館】

岡藩/場所・アクセス・地図 中川家7万石:中川久昭 駿府城への派兵の遅れより謹慎を命じられた岡藩【幕末維新写真館】

【藩名】
岡藩

【説明】
織田信長、豊臣秀吉に仕えた「中川清秀」の子で、播磨国三木城主4万石だった「中川秀成」が、文禄3年(594年)に6万6000石で岡城に入封した。その後の慶長3年(1598年)の検地によって大野郡約3万9千石、直入郡約3万石、大分郡の約350石を合わせて約7万石が岡藩の表高となった。秀成は、慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」において東軍に属したため「徳川家康」より所領を安堵され廃藩置県まで岡の地を統治した。

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第3代藩主「中川久清」は岡山藩を致仕した「熊沢蕃山」を招き灌漑事業・富国強兵などを指導させた。第8代藩主「久貞」は倹約令を中心とした改革で逼迫していた藩財政の再建を図った。また、藩校として由学館を武道修練所として経武館、医師養成所として博済館を設けた。

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幕末の動乱の中では尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った幕末の藩主「中川久昭」は天保12年(1841年)に「柳井藻次郎」、「小河一敏」ら尊王家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴え続けたが久昭は傍観するのみにとどまった。

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慶応4年(1868年)3月11日、新政府の要請により藩主は上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日には「版籍奉還」を行い岡藩知事に就任した。明治4年(1871年)、廃藩置県により岡県となったのち、大分県に編入された。

【場所・アクセス・地図】










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