赤穂城跡:軍学が形にした折れ曲がる堀と、刃傷から討ち入りまでの城

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

赤穂城は千種川の河口に築かれた海際の城で、堀が直角ではなく細かく折れ曲がる独特の縄張を持ちます。軍学の考え方を設計にそのまま持ち込んだ城で、屈曲のたびに横から矢や鉄砲を掛けられるようになっていました。ところがこの城は一度も戦いを経験していません。城の名が全国に知られているのは、城主の刃傷と、その家臣たちが起こした出来事によってです。

この記事のポイント
  • 浅野長直が十三年をかけて築いた、軍学にもとづく縄張の城
  • 堀が細かく折れ、横矢が掛かるよう設計されている
  • 天守台は築かれたが、天守は建てられなかった
  • 浅野家の改易後は永井氏、森氏が入り幕末まで続いた
目次

赤穂城とは:折れ曲がる堀の城

赤穂城は兵庫県赤穂市、瀬戸内に注ぐ千種川の河口近くにあります。海に面した低地に築かれた平城で、南は海、西は川が守りになり、残る二方を堀と石垣で固めました。特徴は堀の線です。まっすぐ伸ばさず、いくつもの角をつくって折り返すため、上から見ると星のようにぎざぎざとした形になります。攻め手が壁に取りついた瞬間、隣の面から横合いを狙えるという仕組みでした。

縄張を担ったのは浅野家の家臣で、これに軍学者の山鹿素行が助言を加えたと伝えられます。素行はのちに平戸城の縄張にも関わる人物で、赤穂には流罪の身で滞在し、九年をこの町で過ごしました。理屈から城を設計するという発想が、この城の形をつくっています。

赤穂城跡の隅櫓と水堀

復元された隅櫓と土塀。堀の水面に白壁が映り、海際の城らしい静かな眺めになる。

浅野家が入り、十三年をかけて築いた

赤穂へ浅野長直が入ったのは正保2年(1645年)、常陸笠間からの移封でした。五万三千石余りの小さな藩ですが、赤穂は塩の産地です。遠浅の海に入浜式の塩田が開かれ、良質な塩が船で全国へ運ばれました。塩の収入が藩を支え、その財が城の普請にも回ったと考えられています。

築城は慶安元年(1648年)から十三年におよびました。本丸、二之丸、三之丸を重ねた変形の輪郭式で、門は枡形に固め、堀の折れを増やして横矢を掛ける。石垣は瀬戸内の石を使い、面を整えて積み上げられています。本丸には天守台が築かれましたが、天守そのものは建てられませんでした。明石城と同じく、この時期の城では珍しいことではありません。

赤穂城の本丸門と水堀

水堀に囲まれた本丸の門。石垣の上に白い土塀がめぐり、門は枡形に固められている。

松の廊下と、その後

浅野内匠頭長矩(イメージ)

元禄14年(1701年)、三代長矩が江戸城の松之大廊下で吉良義央に斬りかかり、その日のうちに切腹を命じられました。赤穂藩は改易となり、城は幕府へ引き渡されます。城の受け渡しにあたったのが筆頭家老の大石良雄、内蔵助でした。

▽ よく語られる話

浅野内匠頭は、賄賂を惜しんだために吉良上野介から執拗な嫌がらせを受け、耐えかねて刃傷に及んだ。

▼ 史実ではこうです

刃傷の動機を記した確かな同時代の記録は残っていません。長矩は「遺恨あり」と述べたと伝わるだけで、その中身は明らかにされないまま処分されました。賄賂や指南をめぐる確執という筋立ては、のちに浄瑠璃や歌舞伎が作り上げた物語の側の説明です。確かなのは、斬りつけた側が即日切腹と改易、斬られた側にお咎めがなかったという処分の落差で、この不均衡が家臣たちを動かす土台になりました。

翌年の暮れ、旧臣たちは吉良邸へ討ち入ります。吉良義央の領地や屋敷については吉良上野介義央のお城や領地や石高と吉良邸の屋敷跡にまとめました。事件のあと、浪士たちは泉岳寺に葬られ、主君の墓のかたわらに並んでいます。

大石内蔵助良雄 裃姿(イメージ)

山鹿素行と、赤穂という町

軍学者の山鹿素行が赤穂に移されたのは、幕府の学問をめぐる主張が咎められたためでした。罪人としての滞在でしたが、浅野家は素行を丁重に扱い、家臣たちは教えを受けています。大石良雄も少年のころに素行の講義に接したと伝えられ、赤穂の武士たちの気風にこの学者の影響を見る向きもあります。

素行が説いたのは、実際の役に立つ学問でした。城の縄張も同じ考え方で、見栄えより敵の動きにどう応じるかを優先します。二之丸の折れ曲がった堀の線を歩くと、机上の理屈がそのまま地面に写し取られていることがわかります。もっとも、その設計が試される機会は最後まで訪れませんでした。

塩が支えた五万三千石

赤穂の塩田は、遠浅の海と雨の少ない気候という条件に恵まれていました。潮の満ち引きを使って砂浜に海水を引き入れ、天日で濃くしてから釜で煮詰める入浜式の製法が広く行われ、生産量は西国でも屈指になります。塩は船で大坂へ、さらに江戸へと運ばれました。

五万三千石という表高は小さいものですが、塩の利益を加えれば藩の実力はそれ以上でした。城下には塩問屋が並び、川の舟運と海運が結び目をつくります。城の南、いまは埋め立てが進んだ一帯が、かつては一面の塩田でした。

永井氏、そして森氏の百七十年

浅野家の改易のあと、赤穂には永井直敬が入り、まもなく森長直が備中西江原から移ってきます。森家は津山城を築いた森忠政の血筋で、津山の本家が絶えたあと分家が大名として残った家でした。以後、森氏が十二代、百七十年あまりにわたって赤穂を治め、幕末を迎えます。

この間、城は戦いに使われることなく、塩田の経営と町の維持が藩の仕事でした。塩の生産技術は改良を重ね、赤穂の塩は江戸でも上等品として扱われます。城下には塩を運ぶ道と船着き場が整えられ、いまも町の骨格として残っています。

赤穂城跡の石碑と天守台

城跡に立つ石碑と説明板。奥の石積みは本丸の天守台で、台は築かれながら天守は建てられなかった。

復元が進む城跡

明治の廃城令で建物は取り壊され、城跡には学校や住宅が建ちました。その後の発掘と整備で、本丸門と櫓門、大手隅櫓と土塀、二之丸門が順に木造で建て直され、堀の水も戻っています。本丸庭園と二之丸庭園は発掘の成果にもとづいて復元され、国の名勝に指定されました。

三之丸には大石良雄の屋敷跡があり、長屋門が当時のまま残っています。討ち入りの報せを伝える早駕籠がこの門を叩いたと語られてきた門で、いまは国の史跡です。隣接する大石神社には赤穂義士を祀り、義士たちの木像が並びます。

大石良雄宅跡の長屋門

大石良雄(内蔵助)の屋敷跡に残る長屋門。門と塀が当時のまま伝えられている。

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赤穂城跡・場所とアクセス

兵庫県赤穂市上仮屋。JR播州赤穂駅から歩いて十五分ほど、車なら山陽自動車道の赤穂インターから十分ほどです。城跡と庭園は無料で歩けます。日本100名城のスタンプは本丸櫓門下や歴史博物館に置かれています。海沿いを東へ向かえば明石城、北東には姫路城があり、播磨の城を順にたどれます。

赤穂と播磨の城
  • 姫路城 ― 播磨の白い世界遺産
  • 明石城 ― 天守台だけが残る将軍秀忠の城
  • 三木城 ― 秀吉の兵糧攻めで知られる播磨の城
  • 平戸城 ― 山鹿素行が縄張に関わったもう一つの城
  • 津山城跡 ― 赤穂へ移った森家の本家の城
  • 江戸城 ― 松之大廊下の刃傷の舞台
  • 大阪城 ― 同じ近畿の天下普請の城
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