新発田城跡:三匹の鯱が載る丁字形の三階櫓と、上杉に背いた新発田重家の六年

新発田城:上杉景勝から離反した新発田重家は滅亡 その後溝口秀勝が6万石にて入城 新発田城

新発田城は越後平野の北、新発田川の流れを取り込んで築かれた平城です。天守はなく、その代わりに本丸の隅に立つ三階櫓が城の象徴になっています。屋根が丁字形に組まれ、鯱が三匹載るという全国でもほかに例のない櫓で、しかもその姿は復元されたいま、堀の外から眺めるしかありません。本丸の大半が今も自衛隊の駐屯地だからです。

この記事のポイント
  • 丁字形の屋根に鯱が三匹載る三階櫓は、全国でここだけ
  • 石垣は切込接で隙間なく積まれ、越後では際立って精緻
  • 上杉景勝に背いた新発田重家の乱と、その後の溝口氏十代
  • 本丸表門と旧二の丸隅櫓が江戸時代から残る重要文化財
目次

新発田城とは:川を堀にした越後北部の城

新発田城は新潟県新発田市の中心にあり、菖蒲城とも浮舟城とも呼ばれてきました。低い土地に築かれているため、堀に水を張れば城が浮かんで見えたといいます。守りの要は高さではなく水で、新発田川の流れを引き込んだ堀が幾重にも城を囲んでいました。

目を引くのは石垣の積み方です。石の合わせ目を隙間なく加工して積む切込接が用いられ、面がそろった整然とした壁になっています。同じ越後でも、石をひとつも使わなかった高田城跡(上越市)とは対照的で、土づくりが当たり前だった東国のなかでは際立った仕上がりです。

新発田城の本丸表門と堀

本丸表門と堀。門は江戸時代から残る建物で、国の重要文化財。右奥に見えるのが同じく現存の旧二の丸隅櫓。

新発田重家の乱:裏切りだったのか

この地はもともと、鎌倉幕府の創設に功のあった佐々木盛綱の流れをくむとされる新発田氏の所領でした。戦国の終わりに当主となった新発田重家は、御館の乱で上杉景勝の側に立って戦い、大きな働きを見せます。ところが乱のあと、天正9年(1581年)に景勝へ反旗をひるがえしました。

▽ よく語られる話

新発田重家は恩賞に不満を抱いて主君を裏切った、身勝手な武将だった。

▼ 史実ではこうです

恩賞への不満が引き金であったことは確かですが、背景はもう少し複雑です。越後北部の国衆は上杉氏に従いながらも独自に動く力を持ち、重家は織田信長と結んで自立をはかりました。上杉家中の秩序が御館の乱で大きく揺らいだ時期に、家臣であることをやめて一個の大名になろうとした動きと見るほうが実情に近く、裏切りという一語で片づけるには惜しい六年の戦いです。

重家の抵抗は長く続きました。春日山城跡の景勝は再三兵を出しましたが、越後北部の湿地と川に守られた新発田の城はなかなか落ちません。潮目が変わったのは本能寺の変で、後ろ盾を失った重家は孤立します。天正15年(1587年)、ついに城は落ち、重家は自刃して新発田氏は滅びました。

溝口秀勝の入封と、五十七年かけた普請

上杉景勝が会津若松城へ移されると、越後は豊臣政権の手で割り直され、慶長3年(1598年)に溝口秀勝が加賀の大聖寺から六万石で新発田へ入りました。景勝がさらに米沢城へ移ったのは関ヶ原のあとのことです。秀勝は重家の城跡を土台に新しい城を構え、あわせて城下町の骨格をつくりました。

城が完成したのは三代宣直の承応3年(1654年)で、着手から五十年以上が過ぎています。海に近く地盤の弱い低地で、川の水を制御しながら石垣を築く工事は容易ではありませんでした。城下では新田開発が進められ、越後平野の湿地が少しずつ水田に変わっていきます。表高は六万石でしたが、実際の収穫は開発の進展とともにこれを大きく上回りました。

新発田城の石碑と櫓

「新発田城」の石碑。堀の向こうに復元された櫓が姿を見せる。城域の大半は今も立ち入れない。

三匹の鯱が載る三階櫓

新発田城に天守は建てられず、本丸の北西隅に上げられた三重の櫓が実質の天守でした。三階櫓と呼ばれたこの建物の最大の特徴は屋根の形です。最上重の屋根が丁字形に組まれ、そのため大棟が三方向に伸びて、鯱が三匹載ることになりました。二匹一組が当たり前の鯱が三匹という城は、ほかに知られていません。

なぜこんな形になったのかははっきりしません。限られた天守台の上で内部を広く取るための工夫だったとも、幕府に天守と見なされないための配慮だったとも言われます。承応3年に建てられた初代は寛文の火災で焼け、延宝7年(1679年)に建て直されました。廃城令によって取り壊されたあと、長く姿を消していましたが、古絵図と古写真をもとに木造で復元され、堀のこちら側から見上げられるようになっています。

新発田城の櫓と切込接の石垣

堀の水面ごしに見る櫓。隙間なく組まれた切込接の石垣の上に、白漆喰となまこ壁の壁面が立ち上がる。

辰巳櫓と、堀部安兵衛の父

本丸の南東隅に立つのが辰巳櫓です。この櫓には、赤穂浪士の堀部安兵衛にまつわる話が伝わっています。安兵衛はもともと新発田藩士の子で、中山安兵衛と名のっていました。父の中山弥次右衛門が櫓の焼失の責めを負って藩を離れ、一家は浪人になったと伝えられます。江戸へ出た安兵衛は高田馬場の決闘で名を挙げ、堀部家の養子となって赤穂へ移り、討ち入りに加わりました。

焼けたのがどの櫓だったのか、弥次右衛門がどのような経緯で藩を出たのかについては、伝承によって細部が異なります。それでも新発田の町が安兵衛を郷土の人として大切にしてきたことは確かで、城下には像が立ち、ゆかりの地をたどる案内も用意されています。

廃城令と、いま残るもの

明治6年(1873年)の廃城令によって、新発田城は本丸表門と旧二の丸隅櫓を残して取り壊されました。跡地は陸軍の歩兵連隊が置かれ、そのまま今日の自衛隊駐屯地へと引き継がれています。城跡の大半に立ち入れないのはこのためで、復元された三階櫓を外から眺めるしかないという事情もここから来ています。

それでも、現存する表門と旧二の丸隅櫓は国の重要文化財として建ち続け、復元された辰巳櫓は内部を見学できます。石垣と水堀もよく残っており、切込接の面の美しさは近くで見てこそ伝わります。天守を持たない城が、櫓と門と石垣だけでどれほど格式を示せるかを教えてくれる城跡です。

新発田城跡の日本百名城の碑

日本百名城の碑。城跡の一角は公園として開かれ、櫓を仰ぎながら堀端を歩ける。

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新発田城跡・場所とアクセス

新潟県新発田市大手町6。JR白新線・羽越本線の新発田駅から歩いて二十分ほど、市役所の隣が城跡です。表門と辰巳櫓は公開期間が決まっており、冬季は閉まります。日本100名城のスタンプは表門の受付、閉鎖中は新発田市観光情報センターなどに置かれているので、訪ねる前に確認しておくと安心です。三階櫓は堀の外から見上げる形になりますが、丁字形の屋根と三匹の鯱は外からでもよくわかります。

越後と上杉氏をめぐる城

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