志村城跡(板橋区):中山道と荒川を見おろした城と、城跡が学校になる理由

志村城/アクセス・場所・地図 石神井城や豊島城の豊島一族志村氏の居城 志村城

志村城(しむらじょう)は、荒川の低地を見おろす台地の先に築かれた城です。豊島氏の一族が築いたとされ、享徳の乱ののちには武蔵へ逃れた千葉氏の一族が入りました。大永四年(一五二四)、北条氏綱に攻められて落城します。今、本丸跡には小学校、二の丸跡には熊野神社が建ち、公園の一角に空堀が残っています。

この記事のポイント
  • 武蔵野台地の北のへりに築かれ、荒川の低地を見おろした城
  • 豊島氏の一族の城から、武蔵千葉氏の城へと主が替わった
  • 赤塚城より早く、北条氏綱によって落とされている
  • 本丸は小学校、二の丸は神社。城跡が学校になるのには理由がある

落ち葉に埋もれた空堀と土塁

林のなかに残る起伏。落ち葉に埋もれているが、手前の窪みが空堀、奥の高まりが土塁の跡とされる。

目次

台地の先に置かれた城

志村は、武蔵野台地が荒川の低地に落ちこむきわにあります。北側は急な斜面で、その下はかつて沼と葦原でした。南は台地が続きますが、そこを堀で断ち切れば城になります。赤塚城や練馬城と同じ、関東の台地の城の形です。

この台地の縁には、中山道が通っていました。江戸から板橋、志村、そして荒川を越えて北へ。人と物が通る道を見おろす位置に、城が置かれています。荒川の渡しを押さえる意味もありました。

豊島氏から千葉氏へ

はじめにこの城を構えたのは、豊島氏の一族とされる志村氏です。豊島氏は武蔵野台地の各地に城を持つ有力な一族で、石神井城や練馬城もその系列にあります。築城の年ははっきりしません。

康正元年(一四五五)、享徳の乱のさなかに下総で千葉氏の家督争いが起こり、敗れた側は武蔵へ逃れました。赤塚城に千葉自胤が入り、志村城には一族の千葉信胤が入ったと伝えられます。板橋の台地に、逃れてきた一族の城が二つ並ぶことになりました。

志村城跡と熊野神社の説明板

板橋区教育委員会の説明板。城の来歴と、二の丸跡に熊野神社が祀られていることが記されている。

北条氏綱に落とされる

大永四年(一五二四)、北条氏綱は江戸城を攻め取り、武蔵へ本格的に進出します。志村城もこのとき攻められ、落ちました。赤塚城の千葉氏がその後も残ったのに対し、志村城は早い段階で北条の手に入っています。中山道と荒川の渡しという、より重要な位置にあったためでしょう。

以後、志村城は北条氏の支城として使われました。天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶと、関東の城は次々と役目を終えます。志村城が廃されたのもこのころと考えられています。

城跡が学校になる理由

▽ よく語られる話
城跡に小学校が建っているのは、たまたまその土地が空いていたからだろう。
▼ 史実ではこうです
偶然ではありません。城跡には、学校に向いた条件がそろっています。台地の上の平らな土地で、まとまった面積があり、周囲より高いので水はけがよい。城が廃されたあとは所有がはっきりせず、社寺の境内や公有地として扱われることも多い。明治以降、学校や役所、公園を置く土地を探したとき、城跡は最初に候補に挙がる場所でした。志村城でも、本丸に小学校、二の丸に神社が入っています。全国の城跡をめぐると、同じ組み合わせにくり返し出会います。校庭のへりに土塁が残っていることも珍しくありません。

都旧跡を示す石柱

「志村城跡」と刻まれた石柱。東京都の旧跡に指定されていることが記され、学校の前に立っている。

志村城跡の訪ね方

城跡は都営三田線の志村三丁目駅から歩いてすぐです。志村城山公園として一部が整備され、林のなかに空堀と土塁の跡が残っています。熊野神社の境内も二の丸跡にあたり、石柱と説明板が立っています。台地のへりに立てば、北へ向かって低地が広がるのがわかります。

同じ板橋区内の赤塚城まではバスや車で十五分ほど。二つの城をあわせて歩くと、武蔵へ逃れた千葉氏がどのように台地に拠点を置いたかが見えてきます。千葉城や本佐倉城まで視野を広げると、一族が分かれていく流れをたどれます。

所在地:〒174-0056 東京都板橋区志村2-16-3

志村城山公園の入口

「志村城山公園」と記された標柱と柵。ここから林のなかへ道が続き、空堀の跡へ下りていける。

  • URLをコピーしました!
目次