愛知県新城市の長篠城跡は、豊川と宇連川が合流する断崖の上にあります。わずか五百ほどの守兵が武田勝頼の一万五千を相手に持ちこたえ、その包囲を解こうと織田・徳川の連合軍が駆けつけたことで、設楽原の決戦につながりました。城そのものは小さく、天守も高石垣もありませんが、川が削った断崖と巨大な空堀だけで一万五千を足止めした、地形の力がそのまま見える城跡です。
- 二つの川の合流点にある断崖の城で、守りの要は地形そのもの
- 武田と徳川のあいだで何度も主が入れ替わった三河の境目の城
- 五百の兵が一万五千を支え、援軍を呼んだ使者が鳥居強右衛門
- 決戦のあと城は傷みがひどく、奥平信昌は新城へ移って廃城となった
長篠城とは:二つの川が削った断崖の城
長篠城は豊川、このあたりでは寒狭川と呼ばれる流れと、宇連川が合わさる岬のような台地の先端に築かれています。二辺は切り立った崖が守り、残る北側だけを土塁と空堀でふさぐ構えで、人の手が加わっているのは実質その一方向だけです。本丸の背後に残る空堀は今も深く、堀底に立つと土塁の高さが見上げるほどになります。信濃と三河を結ぶ街道と、川を使った物資の道が交わる場所でもあり、この一点を押さえれば奥三河の出入りを管理できました。

本丸跡に立つ石標と、その奥に広がる曲輪。背後の山の向こうから武田勢が攻め寄せた。
菅沼氏の城から、武田と徳川が奪い合う城へ
城が築かれたのは永正5年(1508年)ごろ、今川氏に通じた菅沼元成の手によるものと伝えられます。奥三河は今川・武田・徳川の勢力がぶつかる境目で、そこに根を張る山家三方衆と呼ばれた国衆は、そのつど強いほうへ付き従いました。元亀2年(1571年)に武田信玄が三河へ手を伸ばすと長篠城も武田方となり、野田城が信玄に攻め落とされたのもこの流れのなかの出来事です。
ところが信玄が西上の途中で世を去ると、徳川家康はすかさず攻勢に転じ、長篠城を取り返して奥平貞昌を城主に据えました。奥平氏はもともと武田方から徳川方へ寝返った一族で、勝頼にとっては裏切り者の城でもあります。吉田城(豊橋城)に酒井忠次を置き、二俣城や高天神城をめぐって遠江でも攻防が続くなか、長篠は三河側の最前線になりました。
五百の兵が一万五千を支えた籠城
天正3年(1575年)の五月、勝頼は一万五千を率いて長篠城を囲みます。城兵はおよそ五百。武田方は川向こうの医王寺山に本陣を置き、城のまわりに付城を築いて包囲を固めました。城内では兵糧蔵に火矢を射込まれて焼かれ、食糧が尽きかけます。それでも落ちなかったのは、寄せ手が崖を登って攻めかかれる面がほとんどなく、北側の一方向に力を集めても空堀と土塁が立ちはだかったからでした。
包囲を破るには外からの助けがいります。城主奥平貞昌は岡崎の家康のもとへ使者を送ることを決め、その役を引き受けたのが鳥居強右衛門勝商でした。強右衛門は夜のうちに川へ身を沈めて包囲を抜け、岡崎城まで走って援軍の約束を取りつけます。ところが引き返す途中で武田方に捕らえられました。

城跡へ向かう道沿いに残る石積み。長篠城の守りは土塁と空堀、そして川が削った崖が主役だった。
鳥居強右衛門は本当に叫んだのか
捕らえられた強右衛門は、城に向かって援軍は来ないと告げれば助けると持ちかけられ、承知したふりをして城の前に引き出されると、援軍は来ると叫んで磔にされた。この話は江戸時代の軍記物を通じて広く知られ、いまも長篠を語るときに欠かせない場面になっています。

城跡に掲げられた旗指物の複製。武田方の落合左平次が、磔にされた鳥居強右衛門の姿を旗に描かせたと伝わる。
設楽原へ:包囲を解かせた決戦
強右衛門が伝えたとおり、織田信長と徳川家康の連合軍は西から到着し、長篠城の手前の設楽原に陣を敷きました。連吾川に沿って馬防柵を長く築き、そこへ鉄砲隊を配して武田勢を待ち受けます。勝頼は城の押さえに兵を残したまま主力を設楽原へ向け、両軍は正面からぶつかりました。

信玄塚(愛知県新城市)。設楽原の戦いの戦死者を葬った塚と伝わります

信玄塚
武田方は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊といった信玄以来の宿将を次々に失い、大敗を喫します。鉄砲の使い方をめぐる有名な話については、長篠の戦いをわかりやすく解説(姉妹サイト「日本の戦国武将図鑑」)でくわしく扱っています。この敗戦のあと、勝頼は新府城を築いて立て直しを図りますが、躑躅ヶ崎館の時代から武田家を支えてきた人材は戻らず、七年後に岩殿山城を目前にして滅びました。
奥平信昌のその後と、廃城
籠城を守り抜いた奥平貞昌は、信長から一字を与えられて信昌と名を改め、家康の長女亀姫を妻に迎えます。ただし長篠城は攻防で傷みがひどく、修復して使い続けるより新しい城を構えたほうが早いと判断され、信昌は南の地に新城を築いて移りました。長篠城はこうして戦いの翌年ごろには城としての役目を終えています。
信昌はのちに上野の小幡や美濃の加納を与えられ、関ヶ原のあとには京都所司代もつとめました。奥平家の系統は江戸時代を通じて大名として続き、長篠を守り抜いた一戦がその出発点になっています。城跡の本丸には、籠城した将兵をしのぶ石標と説明板が置かれ、毎年五月には犠牲となった人々を供養する行事が営まれています。

本丸跡に立つ標柱。曲輪は静かな草地になっているが、背後には深い空堀が残る。
長篠城跡・場所とアクセス
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
家康の岡崎と長篠の戦い ― 田原城・西尾城から長篠城・設楽原・野田城へ|都内発 車1(車・1泊2日)
愛知県新城市長篠字市場。JR飯田線の長篠城駅から歩いて八分ほどで、線路が城跡を横切っているという珍しい立地です。本丸跡のそばに長篠城址史跡保存館があり、鳥居強右衛門にまつわる資料や籠城戦の展示を見ることができます。日本100名城のスタンプもここに置かれています。城跡から西へ数キロ行けば設楽原の古戦場で、馬防柵が復元され、武田方の武将たちの墓も点在しています。
【都内発】車 1泊2日:武田家の栄光と滅亡!信玄の武田神社・恵林寺と長篠・設楽原古戦場をめぐる甲斐と三河
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の行程。武田の本拠と滅亡の地、そして長篠をつなげて回れます。

