沼城(ぬまじょう)は、岡山市の東部にあった平山城です。亀山城とも呼ばれます。宇喜多直家がこの城を手に入れ、岡山城へ移るまでの十五年ほどをここで過ごしました。備前一国を手中にしていった時期がちょうどこの城の時代で、跡地には「宇喜多家飛躍の地」の碑が立っています。遺構は多く残っていませんが、丘のかたちと登り口に城の面影があります。
- 宇喜多直家が備前を押さえていった時期の本拠
- もとは浦上氏の家臣・中山信正の城で、直家が義父にあたる信正を討って城主となった
- 中国大返しの途中、秀吉軍がこの城で兵を休めたと伝わる
- 直家が岡山へ移ったのち支城となり、やがて廃された

麓の登り口に立つ石灯籠と鳥居。この先の丘が城跡で、木立のあいだを道が登っていく。
沼城とはどんな城か
沼城は、平野のなかに残った低い丘を使った城です。標高はわずかで、山城というより、小高い場所に曲輪を並べた平山城でした。周囲は低湿地で、その水が堀の役目を果たしていたと考えられています。城の名が「沼」であることが、その立地をそのまま語っています。
この一帯は、備前の東部から播磨へ抜ける街道と、吉井川の水運が交わるところです。備前の内側を押さえるにも、東へ兵を出すにも都合がよい。直家がこの城を足がかりに勢力を広げられたのは、この位置によるところが大きいはずです。

木の標柱に「本丸跡」と記されている。まわりは落ち葉に覆われた平場で、建物の跡は地表からはたどれない。
義父を討って城主となる
もともとこの城は、浦上宗景の家臣・中山信正のものでした。信正は直家の妻の父、つまり義父にあたります。永禄二年(一五五九)、直家は主君の意を受けて信正を討ち、城を手に入れました。同じころ、島村盛実らも討たれています。備前の国人衆のあいだで、力の配置が組み替えられた時期でした。
直家は沼城を拠点に、竜の口城を攻め、備中の三村氏と戦い、やがて主君の浦上氏をも追って備前を掌握します。謀略を重ねた人物として語られることが多く、その評価については岡山城の記事でくわしく取りあげています。ここでは、その十五年がこの丘の上で組み立てられたという事実を押さえておけば十分です。
中国大返しと、この城
この前段にあたるのが備中高松城の水攻めです。城を水で囲んだまま毛利と和睦をまとめ、軍を反転させる—その途中に、この沼城があります。備前から播磨へ、そして姫路城へ。街道の各所に味方の拠点が並んでいたことが、あの速度を可能にしました。

城跡の平場に建つ小さな社殿。板張りの簡素な建物で、地元の人によって守られている。
岡山へ移り、城は役目を終える
直家は天正のはじめごろ、岡山の丘に本拠を移しました。旭川の流れを付け替え、町ごと城下をつくり変える大工事です。低湿地の小さな丘では、大名の城下町は載せられません。沼城は支城となり、やがて城としての役目を終えました。
関ヶ原の戦いのあと、宇喜多秀家は八丈島へ流され、岡山には小早川秀秋が入ります。このころ沼城も廃されたとされますが、正確な時期を伝える記録はありません。建物は取り払われ、丘には社と碑だけが残りました。
沼城跡の訪ね方
城跡は岡山市東区の沼にあり、岡山駅から車で三十分ほど。麓に石碑と登り口があり、丘の上まで数分で登れます。曲輪だった平場と、その縁の段差をたどれば、城の規模はつかめます。案内ののぼり旗が道しるべになっています。
岡山の城をめぐるなら、直家が移った岡山城とセットで訪ねるのが自然です。丘の小城から、旭川を付け替えた城下町へ—十五年のあいだに何が変わったかが、二つの城を歩くとよくわかります。
所在地:〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801
宇喜多と争った三村氏の本城は備中松山城:天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城です。

