【城名】
佐伯城
【佐伯城の説明】
佐伯城は大分県佐伯市にあった山城です。
佐伯の地はもともとこの地の土豪である佐伯氏が「栂牟礼城」を築いて大友氏の家臣となっていました。

しかし、大永7年(1527年)「大友義鑑」は謀反の企てありとして「臼杵長景」に命じ、2万余の軍勢を栂牟礼城へ送り込んだが「佐伯惟治」は頑強に抵抗し、落城させることができなかった。

その後、謀略によって惟治は殺害されています。戦国時代も後期に入ると慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが勃発し、天下を二分する大戦となりました。そして、この戦に戦功があった東軍の「毛利高政」が徳川家康より佐伯2万石を与えられました。

高政は山城で交通の便が悪い「栂牟礼城」を廃城とし、新たに「佐伯城」を築きここを拠点としました。その後徳川幕府が成立し、以降12代にわたり毛利氏が佐伯藩として存続し明治を迎えています。

現在、城の遺構はあまり残されていないが「三ノ丸櫓門」や「石垣」などを見ることができます。また、大手門跡付近にあった三府役所跡に佐伯市歴史博物館が建立されています。
山の城から、港の城へ
佐伯の地をもともと押さえていたのは、山の上の栂牟礼(とがむれ)城でした。険しさを頼みにした城で、大友氏の大軍を退けたこともあります。ところが関ヶ原のあとに入った毛利高政は、この城を捨てました。守るには良くても、治めるには不便だったからです。代わりに海と城下町を見下ろす八幡山に新しい城を築きました。これが佐伯城です。戦う城から治める城へ、時代の変わり目がそのまま城の移転になっています。
佐伯惟治の抵抗と、その最期
この土地の武士・佐伯氏は大友氏に仕えていましたが、謀反の疑いをかけられて大軍を差し向けられます。佐伯惟治は栂牟礼城に籠もってこれを退けました。力攻めでは落ちなかったため、最後は謀略によって命を落とします。城の堅さが、かえって主家の警戒を招いた形でした。
毛利高政と、十二代続いた佐伯藩
毛利高政は、もとは森氏で、豊臣秀吉に仕えて毛利姓を与えられた人です。関ヶ原では東軍に属し、その功で佐伯二万石を得ました。以後、毛利家は十二代にわたって佐伯藩を治め、明治を迎えます。九州の大名配置がどう組み替えられたかは飫肥城や秋月城の記事でも書いています。
現地はいま
山上には石垣がよく残り、三の丸の櫓門は現存する建物です。ふもとの大手門跡のそばには佐伯市歴史資料館が建ち、武家屋敷の白壁が続く「歴史と文学の道」が城山へ続きます。石垣や虎口の見方は城の基本用語にまとめました。
【佐伯城・場所・アクセス】
〒876-0831 大分県佐伯市大手町
【佐伯城地図】

