【城名】
林城
【林城の説明】
林城は長野県松本市にあった信濃守護小笠原氏の居城です。
長禄3年(1459年)府中小笠原家の「小笠原清宗」が築城し代々小笠原家の本拠地なりました。

戦国時代に入ると諏訪上原城主「諏訪頼重」、伊奈高遠城主「高遠頼継」、木曽福島の「木曾義康」らとともに武田信玄からの攻撃に連携して備えた。まず諏訪頼重が上原城を落とされると高遠頼継も信玄に敗れ敗走します。

徐々に信濃へ進出してきた信玄の圧力に対し小笠原家家臣団は続々と降るか逃亡し「林城」は一日にして落城しました。長時は京都へ逃れその後越後の上杉謙信を頼った。上杉謙信が死去すると後継者問題で「御館の乱」が勃発すると長時は会津の蘆名氏のもとへと移った。
天正11年(1583年)会津で死去。
享年70。

なお、長時の三男「小笠原貞慶」は武田家滅亡後は織田家に仕え、信長が「本能寺の変」で斃れると徳川家康に従い旧領を回復しています。
なぜ林城は一日で落ちたのか
林城は、信濃守護をつとめた小笠原氏の本拠でした。ところが武田信玄が信濃へ攻め込むと、この城はほとんど戦わないまま落ちています。理由は城の弱さではなく、まわりが先に崩れていたことにあります。信玄は諏訪の上原城、伊那の高遠城と順に切り取り、小笠原方の国衆を一人ずつ味方に引き入れていきました。塩尻峠の戦いで小笠原長時が大敗すると、家臣たちは次々と武田へ寝返ります。支えを失った本城は、攻められる前に主が去る形で終わりました。
林城はどんな構えの城だったのか
林城は一つの城ではなく、尾根づたいに大城(おおじろ)と小城(こじろ)が並ぶ城でした。さらに埴原城、桐原城、山家城など、松本平の東の山際に小笠原氏の支城がいくつも置かれ、城の集まりで谷の出入口を押さえる形になっています。堀切や石積みがいまも残り、松本平を見下ろす眺めは当時のままです。土の城の遺構がよく残る城として、近年は歩く人が増えました。
小笠原氏のその後と、松本城
信玄は林城を廃し、平地にあった深志城を信濃支配の拠点としました。これがのちの松本城です。山の城から平地の城へ移したことで、松本平の中心は今の松本市街へ移りました。京へ逃れた長時は上杉謙信を頼り、最後は会津で亡くなります。三男の貞慶は本能寺の変のあと徳川家康に従って旧領を取り戻し、深志城を松本城と改めました。小笠原一族が三家に分かれた経緯は鈴岡城でも書いています。
現地はいま
林城跡は松本市里山辺の山の上にあります。ふもとの登り口から大城までは徒歩で二十分ほどで、主郭には城跡の標柱が立っています。松本城とあわせて回ると、「山に籠もる城」と「平地を治める城」の違いがよく分かります。
城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
案内板に出てくる言葉を、断面図と配置図でまとめました。
【林城・場所・アクセス】
〒390-0221 長野県松本市里山辺
【林城地図】

