成東城跡(山武市):九十九里を見おろす土の城と、林が守った空堀

成東城/アクセス・場所・地図 秀吉の小田原攻めの際に落城した成東氏の居城 成東城

成東城(なるとうじょう)は、九十九里の平野を見おろす丘に築かれた土の城です。千葉氏の家臣・印東氏が築いたと伝わり、のちに千葉勝胤が再興しました。小田原征伐のさいに北条方として攻められて落城し、徳川の家臣が入ったのち廃されます。城跡は公園になっていますが、林に覆われた斜面には空堀と土塁がよく残っています。

この記事のポイント
  • 九十九里の平野と海を見わたす丘に築かれた、千葉氏系の城
  • いったん廃れたのち、戦国期に再興されて成東氏が入った
  • 小田原征伐で北条方として攻められ落城、のち徳川の家臣が入って廃城
  • 林が守られたことで、空堀と土塁が良好に残っている

城跡を通る道と土の高まり

林のなかを城跡の道が登っていく。右手の高まりが土塁で、道はかつての堀の底をたどっているように見える。

目次

九十九里を見おろす丘

成東の城が置かれたのは、九十九里の低地に張り出した丘の先です。東には浜が広がり、西には内陸の谷が入りこみます。海と平野を一望できる位置で、当時は海ぞいの道と、内陸へ向かう道の両方を見張れました。

関東の城の多くがそうであるように、成東城も土でつくられています。丘のへりを削って切岸とし、尾根を空堀で断ち切り、掘った土を盛って土塁にする。石を積む必要はありません。関東ローム層の土は掘れば固く締まり、垂直に近い壁になります。この土が、関東の城の形を決めました。

印東氏と千葉氏

築城は、千葉氏の一族とされる印東師常によると伝えられます。印東氏はこの地域を治めた在地の領主で、千葉氏の勢力圏の東の端にあたります。ただしその後しばらく城は使われなくなり、享禄年間に千葉勝胤が再興したと伝わります。勝胤の子が城主となり、成東八郎と名のったとされます。

この時期の千葉氏は、本佐倉城を本拠として下総を治めていました。亥鼻の時代はとうに過ぎ、一族の分裂を経て、関東の争いのなかで立場を選び直している最中です。成東城の再興は、上総方面の押さえを固める動きの一つと見られます。

小田原征伐と落城

天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉が小田原へ攻め寄せたとき、房総の国衆の多くは北条方にありました。成東城も攻撃を受けて落ちます。関東の城が次々と落ちていったこの年、下総・上総では、支城が一つずつ潰されていきました。

北条方についたのは、この地域の領主にとって現実的な選択でした。関東は北条氏の支配下に組みこまれており、独自に秀吉と結ぶ余地はほとんどありません。小田原の落城とともに、その枠組み全体が消えました。

戦後、関東は徳川家康に与えられます。成東城には家康の家臣・石川康通が二万石で入り、のちに青山忠成に替わりました。青山氏が岩槻へ移ると、成東城は廃されます。江戸の徳川政権が固まるにつれて、関東の小さな城は次々と役目を終えていきました。

成東城跡公園の案内板

城跡公園の入口に立つ案内板。城跡であることとともに、この丘が自然林として守られてきたことが記されている。

土の城が残ったわけ

▽ よく語られる話
建物も石垣もない土の城跡は、行っても見るものがない。
▼ 史実ではこうです
見るものは地面そのものです。成東城跡では、尾根を断ち切る空堀と、その両側の切岸、曲輪を囲む土塁が今も形を保っています。堀の深さと壁の角度は、当時の兵がどこで足を止められたかを示します。そしてこれらが残ったのは、この丘が自然林として手をつけられずにきたからです。平地の城が宅地や田になって消えたのに対し、林に覆われた城跡は地形ごと保存されました。関東の城めぐりでは、遺構の残り方が土地の使われ方に左右される—この城はそれがよくわかる例です。

城跡に立つ石碑

杉の根もとに据えられた小ぶりの石碑。まわりは落ち葉に覆われ、訪ねる人が少ないぶん静かな一角になっている。

成東城跡の訪ね方

城跡はJR成東駅から歩いて二十分ほど、成東城跡公園として開かれています。斜面の林のなかに道がつけられ、空堀の底を歩いたり、土塁の上をたどったりできます。桜の季節には花見の人が訪れ、ふだんは静かな散策路です。足もとが滑りやすいので、歩きやすい靴が向いています。

近くには土気城や佐倉城があり、下総から上総にかけての土の城をまとめてまわれます。本佐倉城まで足を延ばすと、同じ千葉氏の城でも規模がまるで違うことがわかります。

所在地:〒289-1326 千葉県山武市成東2652

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