佐倉城は、石垣をまったく使わずに築かれた城です。堀はすべて土を掘っただけの空堀、曲輪の縁は土塁。それでいて日本100名城に選ばれ、江戸を東から守る要として代々の老中が城主をつとめました。城主に老中がこれほど集中した城はほかになく、幕末に日米修好通商条約の交渉に当たった堀田正睦もこの城の主です。土だけでできた城が、なぜ幕府にとってこれほど重い場所になったのか。答えは印旛沼と台地という、この土地の形にあります。
- 石垣を一切使わない、土塁と空堀だけの城
- 千葉氏が着工したが当主の暗殺で中断し、土井利勝が家康の命で完成させた
- 歴代城主に老中が多く「老中の城」と呼ばれる
- 幕末の城主・堀田正睦は日米修好通商条約の交渉に当たった
- 明治に陸軍の連隊が置かれ、城の建物はほとんど撤去された
石垣がない城 ― 土だけで守る

草に覆われた空堀。断面はV字に近く、両側の斜面が深く切れこんでいる。石はひとつも使われていない。
写真を見てください。これが佐倉城の堀です。石垣はどこにもなく、地面をそのまま掘り下げ、掘った土を内側へ盛り上げて土塁にしている。関東平野の台地は関東ローム層という赤土でできていて、粘り気があって崩れにくく、雨に濡れると滑る。石を運んでこなくても、この土を掘るだけで十分な障害になるのです。そもそも関東には石垣に使える良質な石が少なく、わざわざ遠くから運ぶより土を掘ったほうが早い。だから関東の城は土の城が圧倒的に多く、御三家の城でありながら石垣も天守も持たなかった水戸城や、沼を要害にした館林城のように、見た目は地味でも守りは堅いという城が並びます。佐倉城もその系譜にあり、しかも江戸に最も近い規模の大きな土の城でした。
暗殺で中断した築城と、土井利勝の完成

城跡に立つ石柱と、その隣に根を張る大木。柱には天然記念物と佐倉城の文字が刻まれている。
この台地に城を築こうとしたのは、もともと下総の名門・千葉氏でした。当主の千葉親胤が家臣に命じて工事を始めさせたものの、その親胤が暗殺されてしまい、築城は中断します。戦国の関東は上杉・北条・武田が押し合う場所で、千葉氏のような在地の名門はそのあいだで割れ、当主が殺されることも珍しくありませんでした。放置された台地に再び手が入るのは、家康が江戸に入って天下が定まってからです。慶長十五年、家康の命を受けた土井利勝が工事を再開し、城を完成させました。利勝はのちに大老にまで上る人物で、家康の実子ではないかという噂まで立った側近中の側近です。その利勝に築かせたという一事が、幕府がこの場所をどう見ていたかを語っています。江戸から東へ向かう街道と、印旛沼の水運。その両方を押さえる位置に、信頼できる者の城を置く。篠山城が京の西の入口を押さえたのと、考え方はまったく同じです。
老中の城 ― 城主が次々に替わった理由

草地に並ぶ礎石。建物は一つも残っていないが、柱が立っていた位置だけが規則正しく地表に示されている。
佐倉城の城主の顔ぶれを並べると、土井利勝、堀田正盛、大久保忠朝、稲葉正往、松平乗邑、そして堀田正亮と、幕府の中枢にいた大名の名前が続きます。老中や大老をつとめた家ばかりで、このため佐倉城は「老中の城」と呼ばれてきました。城主がめまぐるしく替わっているのは藩が不安定だったからではなく、逆です。江戸に近く、いつでも呼び出せる距離にあり、しかも要衝である。だから幕政の中心にいる者をここに置き、役目が変われば次の者を入れる。城そのものが幕閣のポストの一部になっていたようなものでした。写真の礎石は、そうした城主たちが政務をとった建物の跡です。建物はひとつも残っていませんが、柱の位置だけが地面に示されていて、ここに確かに御殿があったことがわかります。
堀田正睦 ― 開国の交渉に当たった城主

城址公園に立つ銅像。台座には「堀田正睦公像」と記され、羽織袴の姿で正面を向いている。
幕末の佐倉藩主が堀田正睦です。老中首座として、アメリカ総領事ハリスとの通商条約交渉に当たりました。正睦は蘭学に理解が深く、開国はもはや避けられないという判断に立って条約をまとめようとします。ところが当時は条約に朝廷の勅許を得るという前例のない手続きが必要とされ、正睦は自ら京へ上ってこれを求めました。結果は拒絶。孝明天皇の反対は強く、正睦は手ぶらで江戸へ戻り、まもなく老中を退くことになります。そのあと大老となった井伊直弼が勅許のないまま条約に調印し、安政の大獄へと進んでいく。つまり正睦の失敗が、幕末の政治が一気に荒れていく分かれ目にありました。こうして結ばれた条約の批准書を交わすため、万延元年(1860)に幕府はアメリカへ使節を送り、のちに勘定奉行となる小栗忠順も目付として加わりました。くわしくは幕末歴史ガイドの万延元年遣米使節とはで紹介しています。正睦はまた、蘭方医の佐藤泰然を佐倉に招いて順天堂を開かせています。日本の西洋医学の拠点のひとつがこの城下から始まったわけで、写真の銅像が立つ公園を歩くと、そのことを記した案内も見つかります。
佐倉惣五郎の伝説
城が消えた理由 ― 陸軍の連隊が入った
佐倉城跡を歩くと、堀と土塁はよく残っているのに建物の痕跡が驚くほど少ないことに気づきます。理由は明治にあります。廃城のあと、この城跡には陸軍の歩兵連隊が置かれ、兵営を建てるために城の建物が撤去され、地面もならされました。三層の天守はそれ以前、江戸後期の火災で失われていて再建されていません。つまり佐倉城は、幕末までに天守を失い、明治に建物を失い、土の造形だけが残った城です。もっとも、そのおかげで堀と土塁は手つかずのまま残りました。石垣の城なら石を取られてしまうところですが、土は誰も持っていきません。山中城や玄蕃尾城のような土の城が当時の形をよく伝えているのと同じ理屈が、ここでも働いています。
訪ね方と見どころ
所在地は千葉県佐倉市城内町。日本100名城の二十番で、城跡は佐倉城址公園として開かれています。見どころは何といっても空堀です。本丸の周囲、とくに西側から南側にかけての堀は深く、底へ下りると両側の斜面が頭より高くそびえます。土だけでここまでできるのかと驚くはずです。次に土塁の上を歩いて、曲輪の形をたどってみてください。本丸・二の丸・三の丸が段をなして並んでいるのがわかります。天守跡には礎石と説明板があり、堀田正睦の銅像は公園の一角に立っています。隣接して国立歴史民俗博物館があるので、城跡と合わせて半日以上の行程になります。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
佐倉城跡・場所とアクセス
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
日帰り:佐倉 ― 佐倉城と国立歴史民俗博物館、武家屋敷と蘭学の城下町をめぐる(車・日帰り)
日帰り:直訴の義民伝承と千葉氏・土井利勝の城郭(車・日帰り)
〒285-0017 千葉県佐倉市城内町
老中の城・順天堂・陸軍連隊!日本100名城・佐倉城と近代医学のあけぼのを辿る北総ドライブ
佐倉城跡→順天堂記念館→連隊跡。北総を車で日帰りの行程です。
