博多の「太閤町割り」とは|九州攻めのあと秀吉が焼け野原の博多を立て直した ─ 神屋宗湛と島井宗室、山笠の「流」まで

焼け跡に新しい町の区画を測り、町家を建てる博多の太閤町割りのイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 太閤町割り(たいこうまちわり)とは、天正15年(1587)6月、九州攻めを終えた秀吉が、戦乱で焼け野原になっていた博多の町を立て直させた事業です
  • 博多は日本と大陸を結ぶ港町でしたが、大友・龍造寺・島津がこの町を奪いあい、たびたび焼かれていました
  • 町割りの実務は石田三成らが担い、黒田孝高(官兵衛)も関わったと伝わります。博多の豪商・神屋宗湛と島井宗室も大きな役割を果たしました
  • 碁盤の目のように整えられた町の区画は、いまの博多の道筋のもとになっています。博多祇園山笠の「流(ながれ)」も、このとき整えられた町のまとまりにさかのぼるといわれます
  • 秀吉が博多を立て直したのは、大陸との貿易、そしてのちの朝鮮出兵の拠点として、この港を押さえるためでもありました

九州攻めのあと、秀吉は筑前の筥崎(いまの福岡市東区)にしばらくとどまり、九州の国分けやバテレン追放令を決めました。その筥崎のすぐそばにあったのが、焼け野原になった博多の町です。この記事では、秀吉が博多をどのように立て直したのか、そしてそれを支えた二人の豪商、神屋宗湛と島井宗室を紹介します。

焼け跡に新しい町の区画を測り、町家を建てる博多の太閤町割りのイメージ(イラスト)
博多の太閤町割りのイメージ(イラスト)
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なぜ博多は焼け野原だったのか

博多は古くから、日本と中国・朝鮮を結ぶ貿易の港として栄えてきた町です。豪商たちは貿易で大きな富を築き、茶の湯の名物を持つほどでした。

しかしその豊かさが、戦国大名たちの争いを呼びます。北九州では大友・龍造寺・島津が博多をめぐって争い、町はたびたび戦火にあいました。天正14年(1586)には島津の軍勢が筑前に攻めこみ、博多も焼かれます。秀吉が九州にやって来たとき、博多はすっかり荒れ果てていました。

太閤町割り ─ 天正15年6月

天正15年6月7日、島津を降した秀吉は筥崎に入り、九州の国分けを行いました(九州攻めはどう終わったのか)。そしてその数日後、博多の町を立て直すよう命じます。

町割りの奉行を務めたのは石田三成らで、九州攻めで活躍した黒田孝高も関わったと伝わります。焼け跡に新しく道を通し、町の区画を碁盤の目のように整えていきました。博多の豪商たちも町割りに加わり、神屋宗湛は自ら間竿(けんざお)を持って町を測って回ったという話も伝わっています。

秀吉は博多の町に、町役の免除などの特権を与え、商人たちが戻って商売ができるようにしました。町割りで整えられた区画は、いまも博多の道筋に受け継がれています。

博多祇園山笠の「流」との関係

博多の夏を彩る博多祇園山笠では、山笠を担ぐ町の単位を「流(ながれ)」と呼びます。この流は、太閤町割りで整えられた町のまとまりにさかのぼるといわれます。秀吉が430年以上前に引いた町の区切りが、いまも祭りの中に生きているのです。

神屋宗湛 ─ 秀吉に気に入られた「筑紫の坊主」

神屋宗湛(1551〜1635)は、博多の豪商・神屋家の当主です。曽祖父の神屋寿禎は、石見銀山の開発に関わった人物でした。

宗湛は天正10年、島井宗室とともに上洛し、信長に会っています。本能寺の変の日、宗湛は本能寺に居合わせ、燃える寺から信長の愛蔵の絵を持ち出したと伝わります。天正14年には大徳寺で出家して「宗湛」と名のり、堺の津田宗及らと茶の湯を通じて交わりました。

天正15年、秀吉に会ったとき、宗湛は居並ぶ堺や奈良の豪商たちをさしおいて上座に座らされ、秀吉から「筑紫の坊主」と呼ばれたといいます。九州攻めでは資金面で秀吉を助け、太閤町割りで大きな役割を果たして、博多商人の第一人者となりました。宗湛が書き残した茶会の記録『宗湛日記』は、利休や古田織部の茶会を伝える貴重な史料です。

島井宗室 ─ 楢柴を持っていた豪商

島井宗室(1539ごろ〜1615)も博多の豪商で、酒屋と金融で財をなし、対馬の宗氏を通じた朝鮮との貿易で利益をあげました。名物の茶入「楢柴肩衝」を持っていたことで知られ、信長もこれを欲しがったと伝わります(天下三肩衝とは)。楢柴はのちに筑前の秋月種実の手に渡り、九州攻めで降伏した種実から秀吉に差し出されました(島津はなぜあっさり秀吉に敗れたのか)。

宗室は九州攻めのあと、博多の復興に力を尽くし、秀吉から屋敷を与えられ、町役を免除されました。ところが、のちに秀吉が朝鮮出兵を考えると、宗室はこれに反対したといわれます。朝鮮との貿易で生きてきた博多商人にとって、戦は商売の道を断つものだったからです。それでも出兵が始まると、宗室は博多の町の代表として兵糧の調達などを担いました。晩年には、家の者に向けて商人の心得を説いた「遺訓十七条」を残しています。

秀吉はなぜ博多を立て直したのか

秀吉が博多の復興を急いだのには、はっきりした理由がありました。博多は大陸との貿易の玄関口です。この港を押さえれば、南蛮貿易や朝鮮・中国との交易の利益を手にできます。同じ筥崎で秀吉はバテレン追放令を出しましたが、そこでも南蛮貿易は続けてよいとしていました(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)。

そしてもう一つ、この時期の秀吉は、すでに大陸への出兵を口にし始めていました。九州攻めの最中に、対馬の宗氏に朝鮮との交渉を命じる書状も出しています。博多は、そのための兵や兵糧を送り出す拠点にもなる町でした。実際、5年後の朝鮮出兵では、博多の商人たちが兵站を支えることになります。

よく語られる話

秀吉は、焼けた博多の人々を救うために町を立て直した。

史実ではこうです

町の人々の暮らしを取り戻した面はたしかにあります。ただ秀吉のねらいは、大陸との貿易の利益と、のちの朝鮮出兵につながる港を押さえることにもありました。博多の豪商を味方につけたのも、そのためです。

いまの博多に残るもの

福岡市博多区の奈良屋町には、神屋宗湛の屋敷跡とされる場所があり、秀吉をまつる豊国神社が建っています。宗湛の墓は妙楽寺にあります。また、島井宗室の屋敷にあったと伝わる「博多塀」は、焼け瓦や石を土で塗りこめた独特の塀で、櫛田神社に移されて残っています。筥崎宮には、利休がこのとき茶の湯の釜をかけたと伝わる「利休釜掛の松」もあります。

よくある疑問

Q. 太閤町割りとは何ですか?
A. 天正15年(1587)、九州攻めを終えた秀吉が、戦乱で荒れた博多の町を立て直させた事業です。町の区画を碁盤の目のように整えました。

Q. 太閤町割りはだれが行ったのですか?
A. 石田三成らが奉行を務め、黒田孝高も関わったと伝わります。博多の豪商・神屋宗湛と島井宗室も大きな役割を果たしました。

Q. 博多祇園山笠の「流」は太閤町割りと関係がありますか?
A. 山笠を担ぐ町の単位「流」は、太閤町割りで整えられた町のまとまりにさかのぼるといわれます。

Q. 神屋宗湛と島井宗室はどんな人ですか?
A. どちらも博多の豪商です。宗湛は秀吉に気に入られた茶人で『宗湛日記』を残し、宗室は名物「楢柴肩衝」を持ち、朝鮮出兵に反対したと伝わります。

参考:『国史大辞典』「神屋宗湛」「島井宗室」、福岡市「博多の文化」、『宗湛日記』ほか

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