- 前田玄以(まえだ げんい)は、天文8年(1539)に美濃で生まれた武将です。若いころは僧侶で、のちに織田信長の家臣となり、嫡男・信忠に付けられました
- 本能寺の変のとき、玄以は信忠とともに京の二条にいましたが、信忠の命で脱出し、信忠の子・三法師(のちの織田秀信)を岐阜城から清洲城へ移しました
- 天正11年(1583)に京都所司代となり、秀吉のもとで京の町と朝廷・寺社を取りしきりました。北野大茶湯や聚楽第行幸でも実務を担っています
- 晩年は五奉行の一人となり、丹波亀山5万石の大名になりました。関ヶ原の戦いではどちらにも深入りせず、慶長7年(1602)に亡くなっています
天正15年(1587)の北野大茶湯。秀吉と千利休らが茶を点てた晴れの舞台の裏で、準備と運営を担った一人が、京都所司代の前田玄以でした。玄以はのちに五奉行の一人となる豊臣政権の重臣ですが、加賀の前田利家ほどには知られていません。この記事では、僧侶から武将になり、京を取りしきった前田玄以の生涯を紹介します。
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僧侶から信忠の家臣へ
前田玄以は、天文8年(1539)に美濃で生まれました。若いころは僧侶で、禅宗の僧だったとも、比叡山の僧だったともいわれます。尾張の寺の住職だったという説もあります。名字は同じ前田ですが、加賀の前田利家の家とは別の家とされます。
やがて玄以は織田信長に召しかかえられ、信長の命で嫡男・信忠に付けられました。僧侶として身につけた読み書きや教養が、武家の世界でも重んじられたのでしょう。
本能寺の変 ─ 三法師を守って清洲へ
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が起きたとき、玄以は信忠とともに京の二条新御所にいました。明智光秀の軍に囲まれた信忠は、自害する前に玄以を脱出させ、自分の子・三法師を守るよう命じたといいます。
玄以は岐阜城にいた幼い三法師を連れ出し、尾張の清洲城へ移しました。三法師はこのあと清須会議で織田家の跡継ぎに立てられます(清須会議をわかりやすく解説)。信長と信忠が同時に倒れた混乱の中で、織田家の血すじを守ったのが玄以でした(清洲城)。
京都所司代 ─ 京の町と朝廷・寺社を取りしきる
天正11年(1583)、玄以は織田信雄から京都所司代に任じられました。翌年ごろ、秀吉の力が京に広がると、玄以は秀吉の家臣となり、そのまま京の行政を任されます。
京都所司代は、京の町の治安や裁判、朝廷や公家との交渉、寺社の管理などを受けもつ役目です。天皇と公家、大寺社、町衆がひしめく京を治めるには、武力よりも、礼儀と文書と交渉の力が求められました。僧侶出身の玄以は、まさにうってつけの人物だったのです。
| 時期 | 玄以がかかわった主なできごと |
|---|---|
| 天正11年(1583) | 京都所司代となる |
| 天正15年(1587)10月 | 北野大茶湯の準備と運営を担う |
| 天正16年(1588)4月 | 後陽成天皇の聚楽第行幸で奉行をつとめる |
| 文禄4年(1595) | 丹波亀山5万石の大名となる |
| 慶長3年(1598) | 五奉行の一人となる |
| 慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦い。深入りせず中立を保ったとされる |
| 慶長7年(1602)5月20日 | 死去 |
北野大茶湯と聚楽第行幸の裏方
北野大茶湯では、京の町に高札を立て、会場を割りふり、くじ引きで客を茶席に案内するなど、細かな準備が必要でした。この実務を担ったのが、前田玄以と宮城頼久らだったと伝わります(北野大茶湯とは)。茶を点てる主役は秀吉と利休たちでしたが、千人近い人々が集まる催しを動かしたのは、玄以ら奉行たちでした。

翌天正16年4月の聚楽第行幸でも、玄以は奉行として活躍しました。後陽成天皇を聚楽第に迎えた五日間は、豊臣政権の威光を示す一大行事でした(聚楽第行幸とは)。朝廷とのやりとりに通じた玄以は、こうした晴れの舞台に欠かせない存在でした。
キリシタンへの姿勢
京都所司代として、玄以はキリシタンとも向きあいました。天正15年に秀吉がバテレン追放令を出すと(秀吉はなぜバテレン追放令を出したのか)、玄以も当初は取り締まる立場にありました。しかし後年は理解を示し、文禄2年(1593)にはひそかに京のキリシタンを守ったともいわれます。玄以の息子二人もキリシタンになったと伝わります。
五奉行、そして関ヶ原
文禄4年(1595)、玄以は丹波亀山5万石を与えられ、大名となりました。慶長3年(1598)には、秀吉の命で五奉行の一人に加えられます。浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家とならび、秀吉亡きあとの政権を支える役目でした(秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのか)。

慶長5年(1600)、石田三成らが家康に対して兵をあげると、玄以は家康を責める文書に名をつらねました。しかし、大坂城にいた増田長盛や長束正家のように深く加わることはせず、豊臣秀頼を守ることを理由に、表立った戦いからは距離を置いたとされます。そのため関ヶ原の戦いのあとも、玄以は家康から領地を認められ、丹波亀山藩の初代藩主となりました。
慶長7年(1602)5月20日、玄以は亡くなりました。64歳でした。信長・信忠、秀吉、そして家康と、三つの時代を生きぬいた人生でした。
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よくある質問
Q. 前田玄以の読み方は?
A. 「まえだ げんい」です。
Q. 前田玄以は前田利家の一族ですか?
A. 同じ前田の名字ですが、加賀の前田利家の家とは別の家とされます。
Q. 前田玄以は何をした人ですか?
A. 本能寺の変で三法師を守って清洲へ移し、その後は京都所司代として京の町と朝廷・寺社を取りしきりました。北野大茶湯や聚楽第行幸の実務を担い、晩年は五奉行の一人となりました。
Q. 前田玄以は関ヶ原でどちらについたのですか?
A. 西軍の文書に名をつらねましたが、深く加わらず、秀頼を守ることを理由に中立を保ったとされます。戦後も家康から領地を認められました。
Q. 前田玄以はいつ亡くなりましたか?
A. 慶長7年(1602)5月20日、64歳で亡くなりました。
まとめ
前田玄以は、僧侶から織田信忠の家臣となり、本能寺の変で三法師を守って清洲へ移した人物です。その後は京都所司代として京の町と朝廷・寺社を取りしきり、北野大茶湯や聚楽第行幸の裏方を担いました。晩年は五奉行の一人となって丹波亀山5万石をおさめ、関ヶ原では深入りせずに家を保ちました。豊臣政権のはなやかな行事は、玄以のような実務の人に支えられていたのです。
参考:『信長公記』/『兼見卿記』/「北野大茶湯之記」
