九度山から大坂城まで、幸村はどの道を通ったのか|安藤政信が演じる幸村がたどった約60キロ ─ 高野街道と紀見峠、河内長野から大坂へ【地図】|ドラマ『真田十勇士』第2話予習

夜明け前の峠道を越えて大坂へ向かう山伏姿の一行のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 慶長19年(1614)、九度山を出た真田信繁(幸村)がどの道を通って大坂城に入ったのかは、確かな記録に残っていません
  • 考えられるのは、高野山と京・大坂を結んでいた参詣道「高野街道」です。九度山から紀の川を渡って橋本へ出て、紀伊と河内の国境の紀見峠を越え、河内長野から北へ進むと大坂に着きます
  • 九度山から大坂城までは道のりでおよそ五十〜六十キロ。当時の旅なら一日から二日ほどの距離で、一行は10月10日ごろ大坂城に入ったとする見方があります
  • 紀伊を治めていた浅野家は、橋本のあたりの村々に信繁を通さないよう見張りを命じていたと伝わります。九度山を出てから紀見峠を越えるまでが、いちばん危うい区間だったと考えられます
  • いまの南海高野線は、ほぼこの高野街道に沿って走っています。九度山駅から橋本駅、紀見峠駅、河内長野駅を通って大阪へ向かえば、幸村がたどったかもしれない道をなぞることができます

10月23日に始まったドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話は、幸村(安藤政信さん)が「ここを出て、家康を討とう」と決意するところで終わりました。次回はいよいよ九度山からの脱出です。九度山を抜け出した幸村は、豊臣家の待つ大坂城へ向かうことになりますが、山あいの九度山から大坂までは、どんな道のりだったのでしょうか。この記事では、幸村が通ったと考えられる道を地図でたどり、道すじの土地と、いまの鉄道で歩ける道を紹介します。

目次

幸村はどの道を通ったのか ─ 記録には残っていない

はじめに断っておくと、信繁が九度山からどの道を通って大坂城に入ったのかを書き残した確かな記録はありません。伝わっているのは、村の人びとを宴に招いて酔わせたすきに九度山を出たという話や、途中で家臣や地侍たちが加わって数百人ほどの一団になったという話、そして大坂に着いた信繁が「伝心月叟」と名のる山伏の姿で大野治長の屋敷を訪ねたという話などです(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。

そのうえで、当時の道すじから考えると、もっとも自然なのは高野山と大坂・京都を結んでいた「高野街道」を通る道です。九度山は高野山のふもとにあり、高野山へ向かう参詣者の多くがこの道を行き来していました。大坂へ急ぐ一行が、よく知られた街道を北へたどったと考えるのが無理のないところでしょう。

九度山から大坂城への道すじを示した略地図
九度山から大坂城へ。赤い破線は高野街道をたどる考えられる道すじの一例(概略)

高野街道とはどんな道か

高野街道は、京都や大坂、堺から高野山へ参るための道で、起点の違う何本かの道がありました。京都の八幡から南へ下る東高野街道、堺から出る西高野街道、摂津の平野から出る中高野街道などです。これらの道は河内の長野(いまの大阪府河内長野市)のあたりで一本にまとまり、そこから先は天見川に沿って山へ入り、紀見峠を越えて紀伊の橋本へ下りていきます。

橋本は、高野街道と、大和から紀の川沿いに西へ延びる大和街道とが交わる場所で、紀の川を行き来する船の港でもありました。橋本から紀の川を渡って南へ進むと、九度山や慈尊院を経て、町石道で高野山へ登ることになります。九度山から大坂へ向かう信繁にとっては、この道を逆にたどって北へ進むのがもっとも近い道でした(九度山とは)。

区間 道のようす
九度山 → 橋本 紀の川のほとりを東へ進み、川を渡って橋本へ。浅野家の見張りが置かれたと伝わる区間
橋本 → 紀見峠 高野街道を北へ登る。紀見峠は紀伊と河内の国境で、ここを越えれば浅野家の領地の外に出る
紀見峠 → 河内長野 天見川に沿って山を下り、河内の平地へ。高野街道がいくつにも分かれる手前の土地
河内長野 → 平野 → 大坂城 中高野街道などを北へ進み、平野を経て大坂城へ。豊臣方の勢力の中に入っていく区間

いちばん危うかったのは紀見峠を越えるまで

九度山の真田家を見張っていたのは、紀伊を治めていた浅野家でした。慶長19年の当主・浅野長晟は徳川方の大名で、信繁が大坂城に入るのを防ぐため、九度山に近い橋本のあたりの村々に、信繁の一行を通さないよう見張れと命じていたと伝わります(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。

夜明け前の峠道を越えて大坂へ向かう山伏姿の一行のイメージ(イラスト)
夜明け前の峠を越えて大坂をめざす一行(イメージ)

つまり、九度山を出て紀の川を渡り、橋本から紀見峠を越えるまでが、浅野家の領地の中を進むいちばん危うい区間だったことになります。紀見峠は紀伊と河内の国境で、ここを越えれば浅野家の領地の外です。のちの江戸時代には、紀見峠に紀州藩の番所が置かれ、国境の出入りが改められていました。慶長のころにどれほどの見張りがあったかはわかりませんが、峠が国境の関門だったことに変わりはありません。

▽ よく語られる話
幸村は九度山の屋敷から掘った抜け穴を通って、ひそかに大坂城まで逃れた。
▼ 史実ではこうです
九度山の真田庵の近くに「真田の抜け穴」と呼ばれる穴がありますが、調べてみると古墳の石室でした。九度山から大坂城までは五十キロ以上あり、地下道でつながっていたわけではありません。信繁の一行は、陸路を北へ進んで大坂城に入ったと考えられます。

九度山から大坂城まで、どれくらいかかったのか

九度山から大坂城までは、高野街道をたどると道のりでおよそ五十〜六十キロになります。当時の人が一日に歩いた距離は、ふつう十里(約四十キロ)ほどといわれますから、急げば一日あまり、ゆっくりでも二日ほどで着く距離です。ただ、信繁の一行は家族や家臣、途中で加わった地侍たちを含む数百人の集団だったともいわれ、身軽な旅人のようには進めなかったかもしれません。

一行が大坂城に入ったのは、慶長19年10月10日ごろとする見方があります。豊臣家の誘いを受け、九度山を出てから数日のうちに大坂に着いたことになります。山伏の姿で大坂に入った信繁は、やがて大坂城の南に出城の真田丸を築き、冬の陣で徳川の大軍を迎え撃つことになりました(真田丸とは)。

いま幸村の道をたどるなら ─ 南海高野線に沿って

現在の南海高野線は、ほぼ高野街道に沿って走っています。九度山駅から橋本駅へ出て、紀見峠駅、天見駅を経て河内長野駅に至る区間は、まさに紀見峠を越える高野街道の道すじです。河内長野から先も、線路は北へ延びて大阪の中心部へ向かいます。電車の窓から見る山あいの景色は、信繁の一行が越えた峠道を思わせます。

九度山駅の近くには、真田父子が暮らした屋敷跡に建つ真田庵(善名称院)や、真田ミュージアムがあります。紀見峠のあたりには、いまも旧街道の面影が残る道があり、歩いて峠を越えることもできます。大坂側の終着点である大坂城と、真田丸の跡とされる三光神社のあたりまで足をのばせば、九度山から大坂の陣までの信繁の歩みを一本の道でつなぐことができるでしょう(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

九度山の位置図
九度山は高野山のふもと、紀の川のほとり。ここが大坂への道の出発点だった(略図)

ドラマ『真田十勇士』第2話の見どころ

ドラマ第1話の予告では、次回は九度山からの脱出が描かれる流れでした。九度山には徳川方の監視役・首藤景明(橋本じゅんさん)がいて、幸村は「どうしてもあと一つ足りない」と動かずにいましたが、佐助(岩本照さん)の登場でいよいよ動き出します。十勇士がどんな手で見張りの目をくぐり、紀見峠を越えて大坂へ向かうのかが見どころになりそうです(『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

大坂城に着いた幸村を待っているのは、大野治長(和田正人さん)ら豊臣家の人びとと、全国から集まった浪人たちです。九度山から大坂へ向かう道は、幸村にとって流人から大坂方の大将へと立場を変える道でもありました(大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのか)。

よくある疑問

Q. 真田幸村は九度山から大坂城までどの道を通ったのですか?
A. 確かな記録はありません。考えられるのは、九度山から橋本へ出て紀見峠を越え、河内長野から北へ進む高野街道の道です。

Q. 九度山から大坂城まではどれくらいの距離ですか?
A. 高野街道をたどると、道のりでおよそ五十〜六十キロです。当時の旅で一日から二日ほどの距離にあたります。

Q. 紀見峠とはどこですか?
A. 大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境にある峠で、昔の紀伊と河内の国境です。高野街道がここを越えていて、江戸時代には紀州藩の番所が置かれていました。

Q. いま幸村の道をたどることはできますか?
A. 南海高野線がほぼ高野街道に沿って走っているので、九度山駅から橋本駅、紀見峠駅、河内長野駅を通って大阪へ向かえば、道すじをなぞることができます。

まとめ

九度山を出た信繁がどの道を通ったのかは記録に残っていませんが、高野山と大坂を結ぶ高野街道をたどり、橋本から紀見峠を越えて河内へ下り、北へ進んで大坂城に入ったと考えるのが自然です。道のりは五十〜六十キロほどで、浅野家の領地を抜ける紀見峠までがいちばん危うい区間でした。いまは南海高野線がこの道に沿って走り、九度山から大阪まで、幸村が最後の戦いへ向かった道をたどることができます。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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